『13の想い』 4.雨音
雨音が聞こえる…。窓越しに見える空の色は暗くて、その向こうにあるはずの光が見えない。それでも静寂って感じは悪くない。たくさんの水が流れる様子を想像して自然って凄いなと思った。一を聴けば十を知り、千を視れば億を悟る。それは左賢帝クレス・ノエル様の言葉だったけど、なるほどそうだと思った。こうして雨音を聞けば見えずともその量はわかる気がする。部屋の隅に置いてある、あの朽ちかけたバケツで換算すればいい。たぶん毎日井戸から汲んで、冬が2回来るぐらいの量だろう。私には大きすぎるバケツでも、もっと大きな人なら軽く持つことが出来るだろう。お父さまならどうだろうか。いつもの笑顔で汗を拭きながらフーフー言って運ぶだろうか。アランならどうするだろう。お師匠様はどうするだろう。私が運ぶならどうするだろう。こんな小さい手で運べるのだろうか。大きくなれば運べるのだろうか。考えることは楽しい。想像することはもっと楽しい。広い世界、たくさんの世界、未だ見ぬ世界。行ってみたい。見てみたい。触ってみたい。感じてみたい。たくさんの人たちや神々、本当の精霊たちとお話したい。お父さまはいつか必ずできると言った。お姉さまもそれを信じている。私だって信じてる。だから想像してしまう。私が誰かとあった時、何からお話するのかを。知りたいことがたくさんあって悩んでしまうかもしれない。聞きたいことがたくさんあってどれから選べばいいかわからない。それでも最初は決めている。それだけは知りたい。教えて欲しい。それはその人の名前だ。名前はその人を表す言葉だとお師匠様は言っていた。どんな人が私と会っているのか名前を聞けばわかるらしい。アランもたぶん同じことを言っていた。全てのものは名前でその存在を証明していると。私の名前はたくさんの言葉で出来ている。だから私はたくさんの存在で出来ていると思う。私の名前にもお父さまの名前が含まれているとアランは言っていた。それは何よりも嬉しいことだ。お姉さまの名前にも私と同じ名前が含まれている。それはお姉さまとの絆の証。遠くにいても一緒の証。雨が止めば、お姉さまは帰って来るだろうか。夜になれば帰って来るだろうか。春になれば帰って来るだろうか。今度はいつお姉さまとお話が出来るのだろうか。お話しすることを考えると楽しくなる。お姉さまはお日さまのように笑うからだ。晴れた青空の色の瞳は私と同じと言うけれど、私はお姉さまの方が綺麗だと思う。鏡に映った私の瞳は同じ色でも幾分淡い感じがする。そこが少し違う。だから鏡越しにみる私の姿はお姉さまそっくりだけどお姉さまじゃない。私ももっと勉強すればお姉さまみたいになれるのだろうか。青空を映す色になれるのだろうか。雨音はまだ止まない。夜が明けてから5時間は経っている。今日はまだお師匠様は現れない。正午までには来るはずだ。今日は一日中雨が降っているのだろうか。雨のせいでお師匠様は来れないのだろうか。さっきアランが来た時に聞いておけばよかったかもしれない。でもそれは別に知らなくていいことだから教えてくれないのだ。お父さまの名前をそっと口にする。隣の部屋にいるであろうお父さまには聞こえない。それでもなぜか嬉しくなる。もう一度囁くように名前を呼ぶ。雨音がかき消してくれるから伝わらないだろう。返事はなくてもお父さんの笑顔を思い出しているだけでも嬉しい。朝の聖書を朗読する時の顔が浮かんだ。温かい笑顔だった。ドアが開いた。私の声が聞こえたのかと思った。お父様が来れば良かったのにと思った。でも入ってきたのはアランだった。今日もまた難しい顔をしている。私を見ずに部屋の中をあちこち動いている。たぶんまた忙しいのだろう。邪魔しちゃいけないので黙っていることにする。じーっとアランを見つめる。アランは働き者だ。大きな本を出したり入れたりしながら時々独り言を言っている。何を言っているのかわからない。私の知らない言葉。人間の言葉。アランは棚の上の方にある本と取ろうとした。手がすべったのだろうか、落っことして頭に当たった。可笑しくって私は笑った。なぜだか笑った。私の声はアランに届いたのだろうか。見てるだけではわからなかった。アランは何冊も本を抱えた。私は数えていた。12冊だった。惜しいと思った。13冊なら私の数字と同じなのにと思った。なぜ惜しいのだろう、それはわからない。私に与えられた数字。それが13だ。だから13と言う数字は好きだ。お師匠様も13は素数だから良いと言った。なぜ13なのか意味はわからない。それでもこの数字は大好きだ。アランは部屋を出て行こうとした。扉を閉める前に顔を出して私を見つめた。本当は違うところを見たのかもしれない。でも目はこちらを向いていた。だから私を見たのだろう。にっこり笑って何かを言った。「ま・た・ね」と聞こえた。私は嬉しくなった。話しかけられるのは嬉しい。声が聞こえるのは嬉しい。その声に触れることは可能だろうか。ふと思った。ガラスの向こうなら出来るのだろうか。そっとガラスに触れてみる。冷たい感触。固い感触。でも悪くない。いつもの感触だ。もし通り抜けられたらあの窓の向こうにも行けるのだろうか。今なら雨の降る大地が見えるのだろうか。想像して笑った。小さな水の粒がたくさん落ちてくる様子。すごく不思議。自然は不思議。クレス様の言葉を思い出す。私にも千を視れば億を悟れるのだろうか。どうすれば出来るのだろう。お会いすれば教えてくれるのだろうか。でも未だお会いすることは叶わない。今の私には多分無理だからだ。外へ出れば会えるのだろうか。それはわからない。わからない。わからない。今の私はわからないことが多すぎる。でもそれは悪いことじゃない。それだけはわかる。だってこれから知る楽しみがたくさんあるからだ。またドアが開く。今度はお師匠様だ。お師匠様の帽子がずぶ濡れで、肩のマントもずぶ濡れだ。長いひげも濡れている。水がぽたぽた落ちている。濡れるのは楽しいのだろうか。雨だから楽しいのだろうか。普通の水ならどうなのだろうか。お師匠様はハンカチで顔を拭きながら、こんにちはと言った。私もこんにちはと言った。これはお昼の挨拶。挨拶するは楽しい。お師匠様は私の名前を呼ぶ。暖かい声で私の名前を呼ぶ。レン・ピ・カートン・ウラウチェルト。それが私の名前。お父さまが付けてくれた名前。16の構成因子の意味と3つの魔術法程式、7つの呪文からできてるそうだ。偶然にもお父さまの名前が入ってるのが何よりも嬉しい。だから名前を呼ばれるのがすごく嬉しい。でもお姉さまは私をレンピカと呼ぶ。お姉さまだけが私をレンピカと呼ぶ。理由は教えてくれない。でもその呼び名も嫌いじゃない。私はレンピカでもいいと思った。お父さまの名前は消えるけど、言葉の意味は悪くない。だから私はお姉さまをスイドリームと呼びかえす。姉妹だけの合言葉。レンピカとスイドリーム。お師匠様が分厚い本を広げる。お話が始まる。雨音は小さくなったけどまだ聞こえる。お師匠様の声に混じってまだ聞こえる。今日は夜まで雨が降るのだろうか。お師匠様のお話を聞きながら、窓の外を見上げる。ガラス越しの空はまだ暗い。いつかは外へガラスの向こうに出られるのだろうか。