『岩手の里山を歩く』
去年の12月だったと思います。早起きして鳴子温泉まで行き、まだ私のほか誰もいない共同浴場の湯に浸かっていました。ほどなくしてもう一人入ってきたお客さんが、私の顔を見るなり、「列車で一緒でしたね。」確かに、前に座っていた人と何度か目が合いました。列車を降りると駅前の大きな地図を見上げていたので、これから旅館でも探すのかなと思いながら、後ろを通り過ぎたのでした。背は高くないですが、がっちりした体に、髭もじゃの厳つい顔です。五十代も後半でしょうか。六十だったかも。見るからに、なにかの職人かアーティストのような風貌です。聞くと、地元の岩手でデザイン関係の仕事をしているのだそうです。でも、なかなか仕事がないので、アルバイトにレンタカーの配車ドライバーをやっているのだとか。ここへも、乗り捨てられた車を取りに来たついで、せっかくなので温泉に浸かろうと思ったのでしょう。最近は、デザインもすべてコンピュータの上で行われます。ソフトウェアがあれば私のような素人でも、こうして写真を補正したりできる時代です。デザインのすべての工程を、コンピュータにのせてしまえば、手間もかなり省けるでしょう。でも、その人は敢えて手作業にこだわっているのです。手作業だから時間もかかるし、それなりのお金ももらわなきゃならない…でも、それだけクオリティの高い仕事をしているのだ。けれども―と、声のトーンが弱くなります。今の世の中が求めているのは、クオリティではなく、とにかく安く上げることなんです。自らから選んで、時代に乗り遅れたんだから仕方ない…自分に言い聞かせるよう、そう何度か繰り返しました。それで、配車のアルバイトをしながら日々をしのいでいるのです。地元の新聞社から本を書かないかと持ちかけられるほど山歩きが好きで、その話がきた時もただのガイドブックにしたくないので、内容は全部任せてもらうのを条件に引き受けました。一年がかりで岩手の山をめぐって、土地々々の歴史まで調べて一冊書き上げました。『岩手の里山を歩く-自然を楽しむ35座を紹介』(岩手日報社)この本を、まだ手にとって見ていないことを、今ごろふと思い出して、こうして書いています。かれこれ30分ほど話したでしょうか。じゃ、そろそろ―と、体を拭い出て行くその人に、連絡先を尋ねたいと思いました。Eメールアドレスがあれば―と出掛かって、その言葉を飲み込みました。時代に背を向けてでも、頑として己のやり方を譲らないある職人との一期一会でした。〔写真は、陸羽東線の車窓から〕【 ピンクの象の回顧展 】今日の風景は、山形の新庄と宮城の小牛田(こごた)とを結ぶ陸羽東線からでしたが、こちらは、新潟の新津から福島の郡山までをつなぐ...磐越西線、車窓から