ウンコにまつわるエトセトラ
「ポン」こう言っても恐らく殆どの人が何の事だか解らないであろう。何故この様な呼び方をするのか分からないのだけどこれはウンコのことである。まぁ、局所的な、ある一部の地域でしか通用しない方言なのだがおかしなことに“その一部の地域”の特産品であるジュースに方言であるその二文字が使われている。はっきりは書かないが“ ○○ジュース ”よって、その地域で暮らす下ネタ好きな子供達はテレビでその商品のCMが流れる度にケタケタと大笑いしたものである。このネーミングの由来はどこから来たのだろうか。面倒なので調べてもいないし、自分の勝手な推測だが今考えると、これは下ネタ好きな人物が何かと理由をつけて韻を含ませ命名したように思えて仕方がない。そう、“ ○○ジュース ” 自分が小学生の頃(30年近く前だろうか)の話で誰に言っても「冗談だろう」と取合ってもらえないのだが当時ある真面目なテレビ番組で自分のウンコを蒸溜醗酵させ酒を造ったという男が紹介されていた。スタジオに現れた、背広上下の出立ち昔で言うところの“真面目なサラリーマン風”のその男は自分のウンコから精製されたその透明の酒を口にし「なかなかイケますよ」と云う。一方、それに対し番組進行役の男性、アシスタントの女性は「いい香りがしますねぇ」などと当たり障りのない受け答えをしつつもその液体を口にすることは無い。と、言うより始めからそういう設定にはなっておらず自分のモノを、登場した本人のみが味わいそれを他の人が遠巻きに眺める、といった“奇人変人の独りよがり的状態”で番組は進められていった。スタジオ中央に設置された木製台の上に鎮座する透明硝子瓶に貼られたラベルには「ウンコ酒」の活字。果たしてこの商品が一般市場に出回ったかどうかは定かではないが自分が推測するに、何の役にも立たぬ、単なるその男の趣味ではないだろうかと思う。小学校校内に於いて便意を催すというのは、地獄の苦しみである。出来ることなら学校のトイレは使用したくないのだ。それでも我慢出来ない時は普段あまり使われることのない理科室近くのトイレなどへ出向き用を足すのだが、これが他の子供に見付かると大騒ぎで「誰かウンコしとる」と、下の隙間から冷やかす者や、上から顔を覗かせ野次をとばす者で騒然となる。当然見付かった不運な子供はその日から暫くの間「ウンコ」「ウンコたれ」などと呼ばれることになる。そういった理由から、ギリギリまで我慢をするのだがこの我慢をしながらの下校の辛いこと・・・必然的に無口になり、額には脂汗。石橋を叩いて渡るかの如く慎重な足取りとなる。そして“一刻も早く自宅に辿り着きたい”そんな気持ちから通学路を外れ普段は禁止されてる近道を使うのだがそんな時に限って同じ通学班の子供に出会わす。「あー、近道しとるー」それを必死の思い「お腹が痛いと先生に言ったら許可がおりた」などという苦しい言い訳で以てかわしようよう辿り着く我が家。いや、“平和なる我が家の便所”勢いよく玄関の戸を開け、そこへ向かう! ?あれ???・・・・開かない??タイミング悪く買い物に出掛けた母親。当然しっかり戸締まりがしてある。とうに我慢の限界を越えてる自分はこの時道路側に面した、便所小窓横にある粗末な生け垣に隠れて用を足した。程無く帰宅した母親はその立派なモノを見付けると「誰かウチの敷地でウンコをしよった。何処の誰だろうか?気持ち悪い」と大騒ぎ。しかし、何の事はない。あなたの息子の仕業である。こうしたアクシデントに遭遇せず、無事帰宅できた場合に於ける密かな遊びがある。やはり一目散に便所へ向かい、便器にまたがるのだがここからが少し違う。直ぐには用を足さず、想像力を働かせる。つまり、まだ下校途中と想定し、どこまで我慢できるか試すのである。“まだ、煙草屋の角を曲がったところ、・・・う、もれそう・・・”と、いった具合。今、冷静に考えると少々マゾの気があったのかもしれない。こんな事もあった。その日、同じクラスのユウイチロウ(仮名)と共に下校していたのだが途中、自分は猛烈な便意に襲われる。それに対し今回、我慢抵抗出来そうもないので、その事を彼に伝えると「見ないからその辺の陰でしてこい」と言う。優しい男である。そういえば彼は男ばかりの3人兄弟の末っ子だが遠足が終った帰り道で出会った、彼の一番上の兄すでに高学年だったその兄に、現在自分が空腹である旨を話すと“今はこれしかないけど”と、空の弁当箱を開けてそこから取り出した、梅干の種を与えてくれ自分は有難くそれをしゃぶらせて戴いた。兄弟揃って優しいのだ。 で、物陰に隠れて野グソを決行しようと力むのだがいつ人が来るとも知れず、緊張しているのかあれ程したかったものが一向に出ない。散々力んだ挙句、ようやく出たのが一辺2センチ弱の丸みを帯びた四角形。あまり出なかった事をユウイチロウに伝えると「どれどれ」と興味津々。 指差した個体を見た彼は「これ、キャラメルやん」いくら自分が「これはウンコだ」と説明しても信じてくれなかった。小学校では年に一回、検便なる回虫及びサナダ虫類による寄生の有無を調べる検査がある。当時から日常的にルーズであった自分は渡されたプリントは持ち帰らずそのまま丸めて机の中。宿題は頻繁に忘れるといった問題児。この検便もすっかり忘れていたのだが、思い出したのが登校間際。一応なんとか提出したのだけど、数日後大騒ぎになった。「人間には寄生しない筈の虫がいる」自分なりに急場を凌いだつもりでいたが、やはり子供の浅知恵。見た目は然程変わり無いものの“人間のモノ”と“犬のモノ”では雲泥の違いがあったらしい。結果として大目玉を食らった。当時住んでた家の近所には小さな川が流れていてその流れに沿ってこれまた細い畦道があった。草など刈る人はいないのだが、通行人が多い為伸び放題のけものみちの様にはならない。というのも、その通りは犬の散歩のメッカとなっていてよくそういった姿が見受けられた。その結果である歓迎しかねる副産物、そう、犬のウンコである。道の脇、草の陰、それこそ至る所に点在しているのだけどよく見てみると、その中にオレンジ色したソーセージのビニールが混入しているもの毛の生えているものなどがあり、当時幼い自分にはそれが謎であった。今考えれば、ソーセージは飼い主が与えたものに違いなくビニールから取り出す間も待てぬ程、がっついた卑しい犬だったのか無精な飼い主の仕業かといったところ。それに、古くなったウンコには毛が生える、と信じてたそれも自分の毛を飲み込んだ犬が、それを消化物と一緒に排泄したに過ぎず風化に伴い混入した毛が露出しただけのものに過ぎなかった。忘れられないのが、通称“ボットン便所”と呼ばれる田舎便所との出会いである。よく「お釣りが返る」と言うが、自分が経験したそれはそんな生易しいものではなかった。お釣りどころか、液状に形が変わっただけで全部、若しくはそれ以上にたっぷりと跳ね返ってきたわけでそれがトラウマとなって暫くはしゃがんで脱糞が出来なかった程である。しかし、それも今では懐かしい思い出。発酵熱による糞尿エキスの温もりも田舎の温かさと感じる次第である。そして今後消えゆくばかりなる“ボットン便所”に敬愛の意を込めまして、長々続きましたるウンコネタ今宵これにてお開きと相成り申すー。 べ、べ、べん(便)