眠れぬ夜のために
何の障害はなくとも、眠れぬ夜はある。新宿から終電で帰ってくると、既に横浜線はなく、八王子の駅から歩いて家まで帰ってきた。最近、この“八王子歩き”が多いのだが、今日は特に寒く体内まで冷気に侵された気分だ。2日連続で雪が降ったね。もう3月も中旬だよ。何年ぶりかは知らないが、珍しいことであるには違いない。何年ぶり…そういえば昨日、もう10年も会っていない友達と連絡を取った。といっても、小学校のでも、サッカークラブの友達でもなく、たった10日間しか会ったことのない友達。1996年7月22日から31日まで。当時小学校6年生だった私は、朝日新聞社が募集した「オリンピックこども特派員」として、アメリカ・アトランタへ旅行する機会に恵まれた。オリンピックを観戦し、記者の仕事を体験したことは勿論だが、何より初めての海外旅行は私にとって大きな出来事だった。このため、以後数年間はアメリカ熱におかされていたのだが。その「こども特派員」には、全国の小学4年生から中学3年生までの10人が選ばれ、アメリカでの生活を共にした。その時の話はまた別の機会にでも回顧するとして、とにかく、10年ぶりの友達というのはその中の一人である。愛知から来た一つ年上の彼女は、少し気が強いかわいい女の子だった。詳しい記述は避けるが、きっと私は彼女のことが好きになった(恥ずかしいから、通常こういう話はblogには書かないことにしているが、まあ10年も前のことだからいいだろう)。そして、ごく稚拙な方法で(例えば、ちょっかいを出すといった)、私たちは仲良くなった。帰国してからも、何度か手紙でのやり取りはしていた。彼女の手紙には、近況報告と最後に必ず「愛知に来ることがあったら、私の家に寄って下さい」との文言があった。しかし、10代前半の少年にとっては、愛知はあまりに遠い場所だった。たぶん私の手紙は、年を重ねるごとに、彼女へのほのかな好意をよりストレートに表現するものに変わっていっただろう…。先日、本格的に部屋の整理を始めたのだが、このオリンピックの時の写真や手紙も出てきた。よくよく調べてみると、その時の友達とは5年前まで年賀状の交換をしていた。ちょうど私がイギリスから帰ってきた頃まで。反米意識が高まっていく中で、少年時代の美しい記憶も影を潜めていった時期だったのだろう。ところが、何故か(全く覚えがないのだが、パソコンでメールを送ったことがあるのかも知れない)私の携帯には、彼女の名前でのメール・アドレスが入っているのである。そのことを思い出した私は、しかし届かないメッセージのつもりで(5年間も同じ携帯のアドレスを使っているとは思わなかったから)、ふとメールを送ってみた。すると、何としばらくして、返信があったのである。5年ぶりの近況報告。今彼女は、地元の大学の4年生で、アメリカの文化研究をしている。来年からは、一人暮らしを始め名古屋の企業で働くらしい。オリンピックに行った時のことをよく覚えていると言うが、それにしても不思議な感覚である。彼女がメールの向こう側に想定している“私”は、子どもの頃の私が成長した私だろうが、たぶんそれは今の私とはほとんど全くの別人である。11歳からの10年間は、想像力などはるか及ばないほど、一人の人間を細胞から作り変えてしまうのに十分な時間である。時間の同一性障害を抱えた私は、10年前の私の影を追い求めてみるが、ヘタな金魚すくいのように何度紙を貼り替えてみても失敗ばかりである。この時、私の対話者は既に彼女ではなく、紛れもなく私自身である。私は、10年前の私が恥ずかしくないような私であるために、不断の努力を続けてきましたか?…少々、話がややこしい。でもきっと、あなたもそうでしょう?10年ぶりの君。人には見せない芯の強さと女性らしく飾ろうとするいじらしさを、あなたはまだ兼ね備えていますか?あなたがそう望んでいたように、女性らしい素敵な女性に成長したのでしょうか?一度会ってみたい気もする。10年間の空白を埋めてみたい気もする。でもきっと、10年目の問いかけは、こうして夜の静寂にぶらさげておくのが良い。その方が、ずっとロマンチックだ。眠れぬ夜のために