祖母の法事
今日の記事は写真なしね。。画面、さびしいけど。 だって祖母のお墓や仏壇の写真撮るには撮ってきたけど載せるのはねぇ。。 私、霊感があるとは思わないけど不思議なことはいっぱいあって写真に関することもけっこうあるから、、 で、今回祖母の法事でまた不思議なこと あったの。。 おっしょさんがお経唱えてるときなにげに「今日はおばあちゃん来てるんかな~」と祭壇を見回していたら。。。 天井から鎖でつるされたろうそく台が祭壇の左右にひとつずつあるんだけどその向かって右だけが「ゆ~らゆら」揺れてる。 その右のろうそく台のすぐ脇では祭壇に置かれた別の太いろうそくに灯がともされていて「その炎で温められた空気が対流でもつくって吊り下がったろうそく台を揺らしてるんかな。。」と 思ったんだけど あの吊り下げてあったろうそく台はいったいどれくらいの重さだったのか。。それが知りたい。 もし重たかったら。。 ぞぉーー である。 あるいは、おっしょさんがお経を唱える前に祭壇の前を少し行ったり来たりしてたのを見ている。だからおっしょさんの袈裟がろうそく台にちょっと触れたのかな。。 とも考えられる。 私はけっこういろんな可能性を考えられるだけ考えながら瞑想状態みたいにそれにはまり込んで答えにたどり着けないかと念じるタイプ。 でもウチの母は「それはおばあちゃんよ」と信じて言い切るタイプ。このときも「右のろうそく台が揺れてるの、見た?」と私が聞いたらすかさず「法事にはやってくるというからね、きっとそうだよ」と。 そりゃあ、私も「おばあちゃんだ」という結論を出したくてそうでない可能性をつぶそうとあれこれ考えるわけだけど。。 ただ、他の可能性を肯定してみようと思って瞑想状態になるとね、その当時の目に見えたもの、耳に聞こえたもの自分が肌で感じた諸々のものがまたありありと、臨場感をもってそこに浮かんでくるんだね。。 そういう状態で「おばあちゃん」説を考えたいがためにあえて他の説を否定しないでむしろそれを肯定して利用するの。 でも ちょっと思った。 確かに私はものごとを鵜呑みにしないで自分で噛み砕いたりそれに肉付けしたりすることにしばらく面白みを覚えてそうすることを信条にしてきたけど やっぱ、もうそろそろ昔の自分に戻ろうかな。。と。母のように、「そのまま信じる人」に戻ろうかな。。と。 うちの母はおばあちゃんとの嫁姑の過酷な戦いに忍耐と 公正さと家族への絆の重さを常に忘れることなく30数年、戦い抜いて最後には病床のおばあちゃんから手を握られて謝罪と感謝の言葉でねぎらわれおばあちゃんをあの世に送ってあげるまできっちり責任を果たしてまさに大勝利だった。 おばあちゃんが亡くなる数年まえからは「もう私はおばあちゃんにはいっさい恨みはないよ」と本当にすっきりした様子で私にも語っていた。 自分の母だけど、すごい人だなと思う。やっぱり神仏には素直にすがることを知っている人が本当は強い人なのかもしれない。 考えが一巡りして祭壇のろうそく台をゆらゆらと揺らしたのはやっぱりおばあちゃんだろうな、と思う。 そうやって私に母のことを通してここまで考えさせたんだ、たぶん。この日記書きながら、合点がいったね。。(笑)