どうしてもきみがいい・3
「……凄い甘えだね。雅は一人で何でもできるでしょう」「そうやって、突き放されるのも嫌だ。寂しいもん」 亜季は返答に困った。時々こうして露骨に甘えてきたりするが、通常はぼんやりしていて、人を寄せ付けない感じすらある。むしろ突き放すのはいつも雅のほうだ。勿論、接客時は笑顔だが、時折こうして見せる寂しそうな表情に亜季は心が揺れるのだ。「……寂しくないよ。いつも隣にいるから」「ありがとう。流石、教育係」 その弾んだ声を聞くと、このまま離れられない気がしてしまう。 神様は亜季に試練を与えたのだ。 亜季は入社してすぐに松田に誘われて愛人になった。松田には同じ会社で働く有能な奥様がいるが、性癖が違うので満たされず、週に二回は亜季を誘った。 それにくわえて松田の直属の部下である長谷川とも関係を持っている。長谷川も男性だ。 週に三日は待田と長谷川に使われる。残りの四日は自分の為に使いたいものだが、二人とも曜日を固定せずにいきなり呼び出すので、今の亜季に自由はなかった。この乱れた人間関係のせいで生活のリズムが狂い、遅刻ギリギリの出社になるのだ。 こんな状態で、この三角関係がよく表沙汰にならないなあと亜季は感心している。それか暗黙の了解なのか。二人が同じ日を指定したことは一度もなかった。(変な関係だ。清算するには、この職場を辞めるしか手立てはないだろうな) 亜季は最近よくこう考えていた。半年前までは性癖が同じであり、別段嫌いでもないので付き合っていたが、最近は名を呼ばれると不快な感覚がする。 それには雅の存在が大きかった。 亜季が入社してから半年後にふらりと現れた新人バイトは髪の毛が茶色で明らかに規定違反なのだが、松田が「似合うから許す」と特別待遇で採用したのが吉沢雅だった。 バイト仲間に紹介されたとき、緊張した様子もなく、逆に力が抜けたような感じでいた。「吉沢です。よろしくお願いします」 ぺこりと下げた頭に、皆が注目したのは言うまでもない。規定違反の茶色い髪に、なんとピアスまでしている。「松田マネージャー。髪とかピアスとか、いいんですか?」 既存のバイトが尋ねると松田は頷いた。「吉沢はコスメ売り場の担当にするから、客層にあわせて今時の子でいいのよ。お客が親しみを持つような店員がいてもおかしくない。むしろ、これからは必要だわ」 確かに客層が学生中心なので、客層に合う、今時の容姿の店員がいたら注目されるだろう。 しかし既存のバイトは今まで髪は黒一色・ピアス禁止の規定を順守してきたので、皆が松田の説明に納得しがたい表情をしている。 その中に亜季もいた。亜季が注目したのは皆と同じに容姿が先だったが、履いている靴に驚いた。先の尖ったストリートシューズで、トリプルモンクストラップだ。一見しただけで高価な靴だとわかる。しかもそんな靴は販売の立ち仕事に向かないとさえ思う。 制服のクレリックのシャツにグレーのボトム姿には意外な組み合わせで、亜季は自分が無難なローファーを履いていることに気後れさえした。「吉沢の教育係は、水元。よろしくね」「はい」 亜季は松田と昨日も夜を共にしたが、そんな話は聞いていなかった。しかし指名された以上はやらなければならない。これは仕事だ。「吉沢、挨拶なさい。今日から水元に色々教えて貰うのよ」「はあ」 気の抜けた返事に、亜季は『大丈夫かな、この子』と不安を覚えた。「水元亜季です。よろしくお願いします」 亜季から歩み寄り、右手を差し出そうとして、ふと歩みが止まった。目線が合うのだ。「わ。身長が同じだ」 他の子達も驚いている。「凄い、偶然」 松田も気付いて興味を持った。「吉沢、身長は何センチ?」「百六十五センチです」「水元は?」「百六十四センチだったと思います」 その答えに皆が「一センチの差か」と驚きの声を挙げた。「こんな偶然もあるのねえ。後姿で判別するには髪の色か。まあ、早速仕事を始めて貰いましょう。頼むわよ、水元」「はい」 松田に一礼して「じゃあ、行きましょう」と雅に声を掛ける。「はい。よろしくお願いします」(眠そうな声だけど、きちんと挨拶ができる子なんだな) 二人が連れ立って歩きながら、亜季は気になっていたことを聞いた。「年は、いくつですか?」「二十三です」「あ、同じだ」「え。年上かと思っていました」 雅の反応に苦笑する。亜季は初対面では年上に見られがちなのだ。落ち着いた物腰と大人びた表情が、人にそう思わせるのだろうが、雅はその逆で童顔なので年下にみられやすい。「あ、そうなんだー。同じ年なんですね」 雅が安堵しているのを見て亜季は直感した。『この子とは上手くやっていけそうだ』と。 亜季が雅に売り場の取り扱う商品や、値札の貼り方等を教えていたら飲み込みが早い。聞けば雅は、以前にもスーパーでバイトをした経験があり「流れが同じだから早く慣れそうです」と、何とも心強いことを言った。 実際にレジの操作もすぐに覚えて、接客も真面目に取り組んでいる。相手は学生なので、わざと親しみやすくタメ口で話したりもするが、お客には好評のようだ。雅の周りに人が集まり、色々と話し込む姿が見られた。「流石ね。経験者は何も教えなくて済むから手が掛からなくて助かるわ」 松田が雅を誉めていた。それを聞きながら亜季は『人に押し付けたくせに』と呆れた。「すぐに時給を上げないとね。他所の店に職場変えされたら困るわ」 このお店では能力に応じて時給が変動する。 しかも上司の推薦があれば社員への昇格もあるのだ。 亜季が狙っていたのは正にこれだ。バイトから始めて、頑張れば社員になれる。それでこのお店で働こうと決めたのだが、枕営業をする羽目になるとは思いもしなかった。「今日は裏通りのカフェで待ち合わせね」 松田が小声で亜季に告げると、そそくさとバックルームに入っていった。(この生活を、止めてしまいたい) 相手に対して愛情がないのに付き合うのは苦痛だと気付いた。悩む亜季を救うのが後輩の雅とは、このときは予想すらしなかった。 4話に続きます。長くてすみません…●雨の日はあかん●動けないですね…台風はもう消えたかな。●拍手をありがとうございます●励みになります、ありがとうございます!