神から人へ ◎神経綸・最後の審判◎
神がこの世に創られし、この地球、自然、大地の恵み、太陽の恵み、海山の産物、植物、動物、昆虫、その他諸々の生物、そして万物の霊長たる人類、こうした一切の創造物は、みな神のみ力、ご意思、ご意図によりて創られ、生を与えられ、魂を与えられ、そして、多くの能力、知力、体力、それぞれに見合いし、全てのものを必要に応じ、程よく備わせられた。それゆえ、一つ一つの調和、意識せずとも、自ずと生じている全体の協力、団結が、各々は意識せずとも、自然に図られ、また働くように創られていた。なれば、人のみが、己を持ち、己のみを大事にしようと望み、行動する、この世にある生命の中で、最も魂を汚した生き物なり。 なれど、それにても神は、人をお見捨てにならず、数々の啓示、現象、事象によりて、人に気づきを与え、悟りを与えんと、骨折られた。気づきを得る者は少なく、逆に神を恨み、憎みて、神から離れてしまう者多かりし。なれど、今ついに、み役を持たせた多くの魂を、この世に順次送られ、人の改心、悔悟、改悛、神への下座と、我(が)の浄め、魂の昇華(しょうげ)を、人一人一人が、これまで以上に、容易に進められる環境、条件を整えられた。なれば、今の世の人は、これまでの長い歴史の中でも、最も神に近付き易く、神の光を受け入れやすい、ありがたい環境といえよう。なぜなら、昔はまだ、これほどまでに、地球、自然、環境、生命の体系、お互いの連鎖が、今ほど狂っておらず、神もそれを見守っておられた時代には、人の中に、幾人かの魂を送り込み、その者に、奇跡を起こさせ、光を示させ、声や文字を持ちて、人に伝えれば、それでことはすみ、治まりおりしゆえに。 人は今、最も危険な時を、なれど、ありがたき時を、迎んとしている。神の奇跡は、ご自分のご存在をお示しになるだけでなく、人をして、いやがうえにも心を入れ替えさせ、心に染まずとも、魂を浄化させることとならん。 この時にあたりて、最後まで神を信じず、我を張り、己に囚われしままなれば、それは永遠の魂の消滅となるのみ。積み来たりし、多くの罪、汚(けが)れ、魂の曇り、濁り、それら全て、一度に浄化させよ。遅れし者は今、この時にも、まだ間に合うべし。最期に伝えられる神のご意思、ご意図、それは今、初めて人に伝えられることではなく、何千年も前から、人々に伝えられしことなり。宗教者はみな知っておりし。いかなる宗教であろうと、この世の終わりに、神が現れ、この世を一度は壊滅させ、そして残されし者を使いて、この世を再び神の国に復活させるであろうことを。宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、皆、同じ内容を伝えしものなり。なれば人は、宗教の違いによらず、全て同じことを知り、目指し、己を磨くことを、魂を浄め、高めることを、図らずも、行わせられしものなり。 神のみ力、神のお仕組み、神のご意思、ご意図、神経綸(かみけいりん)、これら全て、今の世にては、人の意識、知識、概念、能力、常識、良識を越えしものなり。どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は不幸なり。逆に、何ら学なく、教養なく、知識、学問、特技なく、文字を読むことすら出来ずとも、神の偉大さ、崇高さを素直に感じ、信じらるるは幸いなり。なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを素直に聞け、そのことを人に、文字・声・ことば・書・光・音楽・絵画、その他のものを用いて、人に伝えること可なる者はさらに幸いなり。そなたの思う幸せとはいかなるものか。答えられしか。我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。 人としての行が、神の子としての行と直結し、心素直に、目の前の学問、知識に曇らされることなく、踊らされることなく、己に課されし行に取り組み、最善を目指すことができること。そして神の御心に、適(かな)うか、否(いな)かのみが心の基準であり、心の働きが神と一体化し、己なく、我なく、人なく、自分なく、あるのは神のご意思、ご意図のみであるかのような、そうした心組みになれることなり。さならば人は、一切の束縛から放たれ、自由無碍に、行い、楽しみ、無限の喜びに満たされ、無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に満ち溢れん。 人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。永遠の時の流れで、各々の魂に応じて決まりゆくものなり。今、富に満たされ、金銭、物質に恵まれ、何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、あの世に戻らば、何も持ちて行けぬなり。あの世に持ちて帰らるるものは魂ひとつなり。汚れし魂残りし者は、あの世にて、その汚れを取るための、苦しく、辛く、永き行あり。汚れ、曇り、濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみなり。それゆえ、人はできる限り、この世で行を積み、魂を磨き、浄め、高めねばならなくなり。人はこうして、この世の行を積むなれど、苦しいだけが行にあらず。楽しく、嬉しく、喜びに満ち、心豊かに行えるが本物なり。苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、どちらも魂に曇りを作らん。どちらに囚われても、魂は曇り、汚れてゆかん。望ましきは どちらも経験し、心を常に中庸に保ち、安定を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己を強く律する鍛錬を行い行かば、自ずと到達せん。 そなたが望む幸せは、そなたの思いがどれほど、神の御心に適うものか、否かで決まりゆかん。神の御心に添い、神の御心に近づかんと努力することで、そなたの魂が、 神の御心と調和し、連動し始め、共振し始むれば、ことは一切がうまく運びゆかん。それまでは己の鍛錬(たんれん)を繰り返し、魂を浄め高めてゆくことが第一なり。この世の栄耀栄華(えいようえいが)、その空しさ、儚(はかな)さは、古来、人も語り続けしことなり。この世が全てではなく、あの世にても魂は続き、幸せが、単に肉体のみに与えられ、感じられるものでなきことを知らば、幸せなるものの本質も、自ずと悟られよう。道遠く、険しく、困難に見えようとも、人間心を捨ててかからば、そは決して遠く険しき道にあらず。神の光に照らされて、我なく、欲なく、執着なく、自由なままに、神と共にあることを感じ、信じ、神と一体して歩むとき、神は、多くの恵み、仕組みを授けられん。光照らし、光明世界を実現されん。 神仕組み、神経綸、一人一人のためにありし。そして、人全体、地球全体、宇宙全体、一切のため働くなり。神人一体、人皆、神の子、宇宙の一部。なれば、一人の我欲に、囚われ生きることほど、つまらぬものなし。大局に立ち、神の心でこの世を見れば、いかに一人の人間が矮小(わいしょう)なるか、見えてくるらん。人、神、その間に何もなし。神は人と共にあるなり。人、行を積まば、神の御心そのものになりゆくなり。一人一人が行を見つけ、行を見出し、素直に行ずる、一途に行ずる。それが神の望まれる在り方なり。よく求め、よく聞く者は、よき導きを得ん。よく望み、よく働く者は、よき実りを得ん。よき心、よき魂、よき働き、いずれが先か分からねど、人の全てを持ちて、行を積まば、全体がよく働き、巡り始めん。考え過ぎず、悩み過ぎず、目の前に囚われず、大局から眺め、考えゆかれんことを。大局から考え、行うことは、神の御心に適うことなり。必要あって仕組まれしことも、さすれば見えてこよう。己の中に閉じこもりしは、己の目を曇らすことなり。今日もそなたの行の成就を祈らん。これにて今日の問答は終わらん。 神の声を伝える人ひふみともこさん著書「神から人へ(上)」より抜粋 ひふみともこさんHPhttp://hifumitomoko.cocolog-nifty.com/blog/