神から人へ ◎最後の審判・人類救済の仕組み◎
命とは、神に与えられしものなり。命に生を与えるものは、神のみ力、お仕組みによる。生とは現界での状態であり、命とは無限に続く魂のことなり。それゆえ、命は死と生を繰り返すなるが、命は無限に、与えられし時から無限に続き、この世に生を持つこともあらば、死としてあの世に帰ることもある。一つ一つの命、魂は、せねばならぬみ役が定められており、命の続く限り、それぞれの勤めとして果たしていかねばならぬ。生は、人の肉体をもってこの世で行を積むが、死はこの世での肉体の終わりであり、あの世では霊魂となる。しかし、貫くものは一つなり。しかし、その命、魂であっても、終わる時が来る。それは、神のご意志、ご意図にそぐわず、神のみ光をもってしても、浄まらず、曇りを消せぬまでに、その命、魂が汚れしときなり。そのとき神は、自らのお仕組みにより、その命を消される。よく生きて、よく死に、あの世で修行を終えずば、この世でもあの世でも行は続く。この世で、どのような善行を積もうとも、それが、神のご意志、ご意図にそぐわずは、し残した業となって、あの世に持ち越される。 神は人を、人類を、神のご意志、ご意図でお作りになられた。しかし今、この世は、神の求められし地球のあるべき姿ではなく、人もあるべき姿ではなくなった。神は、人類、全ての生の存続を望まれる。神の心を持ち、神のことばを持ちて、自らの存在の意味を知り、自らのみ役を悟り、自らのみ役を果たさんとする魂を救い、そして神の国で再生するを、全ての人類に切に望んでおられる。それは、人を分けるためではなく、人類全てが、神からの魂、命を、大切に使い、そしてこの世に神の国を復活させるためなり。そしてこの世に起きる不幸現象は、全て、神が人に、自らのみ役を認識させるため与えられる、神からのお伝えなのである。不幸現象、病苦、事故、災害、その他の現象から、自らのみ役を、神の御心に適う霊行を、それぞれの行うべき業を、人に悟らせんとされておる。それ故、神の御心を知るためには、その不幸現象から、神のご意図を読み取る努力が必要である。 人が賜りし肉体は、永遠の生は与えられぬ。しかし、魂は、この世の肉体が滅びても、あの世に帰り、その活動を続ける。魂と命、それは神の御心を映し、ご意志、ご意図を実現させるために、肉体が与えられる。しかし、ひとたび肉体を手に入れし魂は、我を持ち始め、欲望、執着を持ち始めて、神の御心を映さぬものとなる。なれば、魂の曇りを消し、魂が、再び神の御心を映せるまでに、魂を浄め、高めねばならぬ。さなくば、この世は、人の欲望のみが渦巻く地獄ともなるらん。 神は、この世の立替え、建て直しの期限を近き明日に定められし。そのときまでの短き間に、一人でも多くの魂、生命、肉体が、この世にいる間に、果たせねばならぬみ役を、十分に果たさねばならず、それは、選ばれし幾人かの人が行うのではなく、人々が集まり、神の手足となりて、互いを助け合って、行わねば出来ぬことなり。出会いし者は、早急に神のご意志、ご意図を確認し、己のみ役を確認し直し、自らの役目を果たしていかねば、間に合わぬ。止まり、滅びるか、気づきて動くか。それは各々の決めることなり。或いは、各々が、振り返り、顧みて、いかなる悟りを得るかにかかろう。それは各々の生き方、この世での行の積み方により、変わってこよう。良き生き方、行の積み方をされし者は、悟りも早かろう。しかし、神の御心に適わぬ行ない多き者、曇り汚れの激しき者は、いかなるお仕組みにも悟りを得ず、曇りをさらに深め行こう。 最期の時に、人は、最期の悟りを与えられる。しかし、最期の時では既に遅し。悟りを得ても、肉体は既になく、魂の消滅と共に、永遠の時の中から消え行くなり。時は短し。与えられし時は短し。いかなる努力も、神の御心に適わぬ努力、自らのみ役を担わぬ努力は、ただ我欲からなされる行いにて、神は見捨てられよう。そして、魂を消滅させられよう。神は気付きし魂のみを残し、集め、新たにそれぞれのみ役を与えられる。そのとき残りし魂は、神の御心を素直に映す魂なり。神のご意志、ご意図に通じる心を備わせられし魂なり。一人一人が集まり集いて、神の御心に調和し、一つの生命体のように全体を作り、この世を動かして行く時、我は消え、欲もなく、争いもなくなろう。人が人と比べあい、違いを見つけ、他を憎み、そねみ、うらやむ。それは我にて、神の御心に遠きものなり。神の御心に、人の心が通じゆき、一つに和する時、人は、我なく、欲なく己なく、人との違いも み役の違い、課せられし行の、違いに過ぎぬことを知り、ゆえに争うことなく、妬み、そねむこともなし。人が己をなくし、神と心を調和させ、神のご意志が、すなわち自らの意思となる時、それは、この世に神の国を実現させえたときなり。その時、人は、神に近く、神の御心に適い、神の御心を映したこの世を作りえよう。 神はただ、人に幸せ与え、人を平和に暮らさせんために、今日までの長い歴史、時の流れを費やされた。歴史、時の流れ、人の営み、万物の盛衰、生命の興亡、何一つ意味無きものはない。来たるべき日、神の国がこの世に生まれしとき、人は再び、その意味を知ろう。そして、そのときこそ、人は人として、神の子として、神の映された心を持ち、神の御心を見、思い、悟ることとなろう。それまでは、人は人としてのみ、この世を、この世での現象を、見聞き感じることしかできぬ。しかし、間もなくの日、来たるべき時の訪れる日、人は己の役割と、神の御心と、他の生命、全ての生命、自然、物質、地球、それら全てと和する魂を与えられる。今すぐ神の御心に立ち返り、清い魂を取り戻さねばならぬ。そして霊行を求め、霊行を積まねばならぬ。霊行を通じてのみ、神の御心を知ることが出来る。それは、我のない、欲のない、汚れ、曇りとは最も遠き行であり、神の御心に最も近き行いなればなり。神は人類救済のため、人類全てを生まれ変わらせるために、仕組みをもって示されてきた。その仕組みを学び、悟れよ。 神の声を伝える人ひふみともこ 著書 「神から人へ(下)」より抜粋 ひふみともこさんHP http://hifumitomoko.cocolog-nifty.com/blog/