百人一首 100番歌 百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり
百人一首 100番歌 百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり ももしきや ふるきのきはの しのふにも なほあまりある むかしなりけり 宮中の古い軒端から垂れ下がる忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、栄華を極めた昔のよき時代のことだねぇ~。 作者:順徳院(じゅんとくいん) 順徳天皇 1197~1242 在位1210~1221 第84代天皇。後鳥羽天皇の第3皇子。承久の乱で敗れて佐渡に配流され、その地で崩御。 今回の歌は小倉百人一首の100番目。撰者である藤原定家が仕えた後鳥羽院の息子、順徳院の歌です。 この歌は承久の乱が起こる前、順徳院が20歳の時に詠んだ歌です。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし、たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ ご存じ、平家物語の冒頭、平氏が没落していく様を表しております。平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。作者は、最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)こと藤原行長なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある。平家物語の作者:藤原行長 (ふじわらの-ゆきなが) 鎌倉時代の官吏。 藤原行隆の子。関白九条兼実(かねざね)の家司(けいし)で,蔵人(くろうど),下野守(しもつけのかみ)をつとめる。漢詩文にすぐれ,元久2年(1205)の「元久詩歌合」の詩作者のひとり。従弟の葉室時長とともに,「平家物語」の作者とされる信濃前司(しなののぜんじ)行長に擬せられている。※