船村徹記念館を訪問してみた
船村徹・記念館を訪ねる、きっかけは春日八郎記念館(福島県会津坂下町)を今年の4/6に訪れた折に「別れの一本杉」を作曲したのが船村徹氏(1932年、昭和7年生まれ)と知り、隣りの栃木県日光市に記念館があることもわかり約5ヶ月後の表敬訪問となりました。内部は撮影禁止なので外景のみ撮影です春日八郎記念館とはエライ違いでしたさすが大御所作曲家ですね#船村徹記念館 #日光市1956年(s31)船村徹は美空ひばりが19歳、徹が24歳の時に最初の出会いがあったそして1989年(s64)通57歳、ひばり52歳で死去。全50曲提供した。 思いのままに生きて来た。 人に出逢い 人と別れ 旅をして 酒を飲むー。私の傍にはいつでも音楽があった。喜びも悲しみもみんな旋律(メロディー)に閉じ込めた。思い出は儚いが、それゆえに尊い。尊い日々を決して忘れないよう、私は自分自身の為に何冊かの本を記した。ページを開けば色あせて遠い日も鮮やかに甦る。そしてまたふらりふらり流れに逆らわず明日からも思いのままに生きてゆこう。 ーーーーーーーー日光連山子供の頃水浴びをし、魚を追った鬼怒川の水音をいまでも覚えている畑や田んぼの向こうにうねうねと続く日光連山の山容がまぶたに焼き付いている。日光の街や中禅寺湖湖畔のにぎわい、鎮守様の祭りのさんざめき。冬の野面をわたる寒風、灌木の林のみずみずしい緑つくづく日本と言う国はすばらしいと思います。とりわけ自然に対する日本人の細やかな感性は、他に類を見ないでしょう。 ーーーーーーこころこそこころこそ死ぬことのない命なの 堀口大学堀口大学さんからいただいた色紙が私の仕事場に飾ってあるそこに描かれた上の言葉を祈りのように胸の中でつぶやきようやく私は生きながらえている離れたくないと思った人と別れ信じたいと願った人に裏切られ心ならずも人を傷つけ・・・それでも生きていかなければならない闘わなければならない自分をおぞましく思うことが私にだってあるのだ。そんな時、そっと独りごちる。春、その人とれんげの花を摘んで遊んだ幼い恋よふる里 ふる里遠くにありても我が思い出の 消えることなし 「その人の歌」より夏 その人は絣のゆかた祭りの笛を好きだといったふる里 ふる里遠くに在りてもわが思い出の 消えることなし 「その人の歌」より秋 その人がお嫁にゆくと母から聞いて流した涙ふる里 ふる里遠くに在りてもわが想い出 消えることなし 「その人の歌」より冬 その人の噂もたえて葵が村に降って夜よふる里 ふる里遠くにありても我が思い出の消えることなし 「その人の歌」より表に出たら雷鳴が聞こえ、雨粒がポツリ、ポツリと降ってきました。これから帰宅です。約120kmです。あれよあれよと云う間に大粒に変わりました。稲光りもピカっxっと‼️ 船村徹氏は作曲家であったわけですが記念館訪問で、詩も書いており船村徹関連本が10冊余あることを知ったので、その著書も読んでみたいものです。北島三郎が歌った「風雪流れ旅」も氏が作曲されたものと知った。今後、カラオケでしっかりと唄えるようになりたいと思っている歌なので、今回の記念館訪問にも意義があったと云えるようにしたいものです。web検索で松山千春氏が唄う「風雪流れ旅」があることも発見、演歌を唄う松山千春の歌唱力、改めて声量に感嘆ですね。この船村徹記念館は道の駅日光と同じ敷地内にあります。3階建てのビルでもって閲覧は無料。昨年2023年から入場者が少なくなって無料化にしたとのこと。コロナの流行ということもあるのでしょうが昭和時代に活躍した人のファン層も今では高齢化してしまったということになりましょうか。あ、そうだ、私の地元にも昭和の歌謡曲、作曲家がおりました。市川昭介氏(1933年、昭和8年生)です。記念館などはありませんが何かゆかりのものなど無いものだろうか、折をみて調べてみよう。