京都の歴史(History of Kyoto)
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、英: Kyōto)は、日本の地名、都市。都、もしくは京ともいい、歴史的には794年以降日本の首都であった平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。現在の京都は、包括的地方公共団体・京都府の地域や、その府庁所在地たる基礎的地方公共団体・京都市の地域を指す。金閣寺、清水寺などが、世界文化遺産に登録された。京都は山に囲まれ、自然豊かな場所。京都の位置引用:Wikipedia「京都」の由来東アジアでは古来、歴史的に「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)というようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。日本でも飛鳥京や恭仁京などが「京都」とも呼ばれた。平安京を指して日本の文献で「京都」という言葉が使われている初出(しょしゅつ)つまり学術的に存在が確認されている最古の文献は『中右記』(承徳2年、1098年)であり、「3月21日条」で使われている「京都」である(ただしこの「京都」が普通名詞なのか固有名詞なのかは判断が難しい)。なお平安京は造都当時は「北京」とも呼ばれた。(なおこう呼ぶ場合、奈良の平城京のことを対比的に「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞としては「南都」が多用された。)つまり造都当時は平安京の普段の呼び方が定まっていなかったのである。平安京を「京都」と呼ぶことが定着したのは平安時代後期からで、「京」や「京師」という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)などが平安京を指すための固有名詞のようになり定着していった。「長安」「洛陽」「洛」という呼び方平安京(京都)は、古く詩文において中国王朝の都に因み洛陽、長安などとも呼ばれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという。これらの呼び名が定着した時期は明らかになっていない。「命名の記録もなく、これら「長安」「洛陽」が正式名称であったとは考えられず、文学上の雅称であったと考えられる。」。「長安城」という呼び方は平安中期で一旦姿を消し、再び現れるのは鎌倉末期以降、拾芥抄において洞院公賢が「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記して以降のことである。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため、「洛陽」とはすなわち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる。「本朝文粋」に収められた源順(911 - 983)が書いた漢詩に平安京を指して「洛城」と呼ぶ例が見られる。これをもってして「洛」の一字をもって京都を表す慣習は早くから成立していたと考えられる。また「平安時代史事典」によると一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに「洛陽」のみが使われるようになったと考えられるという。京域内を「洛中」と呼び、京域縁辺を「洛外」、京都以外から京都へ行くことを上洛と呼んだ。特殊な例ではあるが「下洛」という呼びかたも平家物語に見られる。これは山法師が京中を侵すことを指した。「洛陽」という呼び方は現在でも私立洛陽総合高等学校といった固有名詞に残る。「洛」のほうに関しては、現在でも京都に行くあるいは来ること、すなわち京都入りを「入洛」ということがある。 また今日の「洛南」「洛北」「洛西」「洛東」などといった表現はいずれも、京の外側の南・北・西・東を指す表現にすぎないが、これらの表現も京のことを「洛」の字で指すことで成立している。歴史平安遷都京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる千年の都である。京都に都が移された理由は諸説ある。例えば、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、長岡京が桂川や小畑川氾濫によりしばしば水害に遭ったからとする説、長岡京での早良親王怨霊説などである。平安京は中国の風水に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。京域は、東西約4.5km、南北約5.2kmの長方形で、内部は正方形の街区をもっていた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。本来なら羅城を巡らすべきであったが、羅城門の両側のみ羅城風の塀を設けた。南北は北辺の一条大路から九条大路まで、東西は東京極大路から西京極大路まで、皇居と官庁街を含む大内裏は一条大路と二条大路の間、(東)大宮大路と西大宮大路の間に設けられた。現在の千本通が当時の南北の中心街路である朱雀大路にあたり、真北には造都の基準となったとされる船岡山が位置していた。また、大内裏のすぐ南には禁苑である「神泉苑」が設けられ貴顕の遊びの場となるとともに干ばつに際しては雨乞いの場となった。この池は太古に京都盆地に広がっていた「古京都湖(古山城湖)」の名残とされる。平城京で寺院の政治介入が甚だしく悪弊をもたらせたため、京域内の新設寺院は官寺である東寺と西寺に限られた。造都に際して河川の付け替えが行われたとされ、堀川は鴨川の旧河道との説があるが、異論もある。建設開始から12年後の805年に、民苦を理由として新京造営を司る造宮職(ぞうぐうしき)が廃止され、計画された右京区の約半分が未完成のまま、平安京の建設は終了した。近年の研究では、平安京は歴史の教科書の図面のように整然とした都市ではなく、左京に偏った都市になっていたと考えられている。平安時代の律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。平安中末期には東山山麓に法性寺、鴨川左岸に六勝寺、鳥羽に貴族の別荘が建てられた。特に六波羅には当時隆盛を極めていた平氏一門の屋敷が軒を連ねた。平安京復元模型京都市平安京創生館より平安京と現在の京都盆地の位置関係引用:Wikipedia平安京全体図引用:Wikipedia鎌倉時代鎌倉時代にも京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉殿に1185年守護・地頭の設置を認め、鎌倉幕府が全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めた。承久の乱を契機に鎌倉幕府は平家の本拠地跡の六波羅に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行う。鎌倉時代末期に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われる(南北朝分裂以後、南朝による京都占領は4度行われたが、いずれも短期間で足利軍に撃退されている)。承久の乱幕府軍進路引用:Wikipedia 室町時代南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。京内には武家の屋敷は建てないとするそれまでの慣習に反して足利尊氏が御池高倉辺に屋敷を構えると、以後次々と武家は市中に進出した。足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から「室町殿」と呼ばれた。現在の小京都の起源は、当時の京都の街づくりの導入にたどれるともいわれる。洛中洛外図屏風左隻引用:Wikipedia 戦国時代・安土桃山時代戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、荒廃。その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれていた。その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていた。 中世史家の瀬田勝哉は、応仁の乱以前の京都は激しい人口の増加によって絶えず膨張し輪郭と構造が掴みにくいが、応仁の乱を境として都市の枠組みが明確になり、内と外がはっきりとした都市となったと述べている。この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、巨大な環状の御土居(おどい)の築造による、戦乱によって領域が曖昧になっていた京都の内側と外側(洛中、洛外)の確定(線引き)、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町や寺之内の建設などを行い、現在でもしばしばその都市構造を確認することができる(→天正の地割)。天正19年秀吉は伏見の指月に隠居したが、文禄4年関白位を引き継いだ豊臣秀次が切腹すると、政治の中心は完全に伏見に移った。秀吉の没後も徳川家康が伏見城に入り伏見は引き続き政治の中心地であった。また、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶが、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたものである。真如堂縁起絵巻引用:Wikipedia 御土居の位置引用:Wikipedia 聚楽第図屏風引用:Wikipedia 江戸時代関ヶ原合戦後、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が伏見城にて征夷大将軍に任官される。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にもかかわらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。以後京都は文・工芸の中心地として人口が50万人を超え、最大都市の江戸や、天下の台所大坂に次ぐ都市として繁栄した。各藩も京都に藩邸を構え対朝廷及び各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。政情が不安定になった幕末は政治が再び京都を中心に動き、幕府は京都守護職を置いて、その下で新撰組や見廻組が倒幕派の摘発を担った。江戸時代中期の二条城の縄張り図引用:Wikipedia1696年の京都引用:Wikipedia 首都移転から現在まで1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。そして天皇の実際の居所は東京となった。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。長州藩や薩摩藩が中心となって打ち立てた明治政府は天皇を中心とした国づくりを進め、やはり天皇の実際の居所こそがまつりごとの場であり首都であると考えたからである。京都に住む人々にとっては天皇が京都よりも東京を選び京都を去ってしまったことは、精神的にとても大きなショックであった。京都にはいまだに感情的に受け入れられないと感じている人々もおり(学者による学術論文でもなく、ウィキペディアの出典選定規定を満たさないただの個人のウェブページにすぎないが)「京都に首都としての位置付けを残したまま国の政治の中枢機能を東京に移転(東京奠都)したため、また、京都御所 ( 紫宸殿 ) に天皇の居所を示す高御座が在るので、現在も日本の首都は京都である」という、独自の解釈を書く人もいまだにいるほどである。なお江戸のことを東のほうにある京という意味の「東京」と改称する構想は江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていて、佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記した。つまり佐藤の構想は京都は従来どおり「京都」と呼び続け、大阪のことを「西京」、江戸を「東京」と呼ぶものであった。この段階で、都を、つまり首都を、東に移す計画があったわけである。佐藤の書を読み影響を受けた大久保利通が江戸を東京と改称することを明治天皇に建言したという。なお「西京」という名称については明治以降に実際に起きたことは佐藤の構想とは異なり、大阪ではなくて京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶ風潮が京都で広まり、例えば第二次大戦後に新制大学として発足した京都府立大学は最初「西京大学」と称した。1879年(明治12年)には郡区町村編制法により、京都に上京区と下京区の2区が置かれた。1889年(明治22年)には市制のうち三市に対して実施された市制特例により、上京区・下京区を存置したまま府管轄下に置かれる「京都市」となった。1898年(明治31年)に市制が改正されたことにより、一般市と同等の市制が施行された。1956年(昭和31年)9月1日からは政令指定都市に移行した。現在の京都府は、江戸時代までの令制国の区分では、平安京が含まれている山城国のほかに丹後国と丹波国の一部を含む。京都市は、京と別の都市だった伏見市や旧丹波国に位置する京北地域などに市域が広っている。MAP of KIYOTO(1873年)引用:Wikipedia 市街路の変遷793年(延暦12年)平安京が新しい都に選ばれ、その翌年の794年に長岡京から遷都されたときは、東西約4.5 kmのあいだに33本の通り、南北5.2 kmのあいだに39本の通りが通されて、碁盤の目状に整然と区画された。平安京の町並みは、室町時代に勃発した南北朝の戦い(1336年 - 1392年ごろ)や応仁の乱(1467年 - 1477年)で幾度も焼失して荒廃した。その復興の際に市街路を狭くして、それまで市街路があったところに家屋が建てられたりしたもしたが、市街路のどこの場所を狭くするかは京都市街の場所によってまちまちであったため、道幅の広い所や狭い所があったり、まっすぐになっていない道が出来たりもした。しだいに市街路に面したところに商店が軒を連ねるようになって土地が不足するようになっていったが、市街路で区画された土地の中央部分は空き地になっていた。京都の土地不足は、桃山時代の豊臣秀吉によって、各区画の中央部で空き地になっている土地を有効利用して土地不足を解消するために、南北方向に道路が5本増やされた。これが功を奏し、さらに京都の人々の手によって南北方向の道路が増やし続けられた。このため、現在の京都市街地の通りは碁盤の目状ではなくなっており、東西方向の通りと比較して、南北方向の通りの方が数が多く、間隔は狭く並んでおり、街路に囲われた土地区画も長方形になっているところが多い。京都空襲(きょうとくうしゅう、Bombing of Kyoto)アメリカ軍によって太平洋戦争中の1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日にかけて5度にわたって行われた無差別爆撃。第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名(京都府警の資料では死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとされる)。報道管制が敷かれたため、被害の詳細は判明していない。空襲を行ったB29爆撃機引用:Wikipedia以降の爆撃禁止第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。停止理由は、歴代米政府中枢にいたバーナード・バルークも主導していたように、原爆投下目標だったからとされている。何故京都に原爆が投下されなかったのかは、京都には世界的にも価値の高い文化遺産が多数存在したからと言われていたが、近年になってその説は有力ではないとも言われてきている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』36時間 わたしの京都観光 12通りの1泊2日 [ 淡交社編集局 ]History of KyotoKyoto is a place name and city in Japan.Heiankyo, also known as the capital or Kyoto, has historically been the capital of Japan since 794, and was the political and cultural center of Japan at that time.Today, Kyoto refers to the area of Kyoto Prefecture, which is a comprehensive local public body, and the area of Kyoto City, which is the basic local public body where the government office is located.Kinkakuji Temple and Kiyomizudera Temple have been registered as World Cultural Heritage Sites.Kyoto is surrounded by mountains and is a place rich in nature.Origin of "Kyoto"Since ancient times in East Asia, Kyoto and Kyoshi have been used as common nouns to mean "the city where Tenshi-sama lives" and "the capital". During the Western Jin dynasty, the word "Kyoto" was used to avoid the word "master", which is the name of Sejong, and after that, names such as Kyoto, Kyoshi, and Kyoto were used.In Japan, Asukakyo and Kunikyo were also called "Kyoto". The first appearance of the word "Kyoto" in Japanese literature, which refers to Heiankyo, that is, the oldest document whose existence has been confirmed academically, is "March 21" (1098). It is "Kyoto" used in "Article". Heiankyo was also called "Beijing" when the capital was built.In other words, at the time of the city's construction, the usual name for Heiankyo was not decided. The name "Kyoto" was established in the latter half of the Heian period, and the names "Kyo" and "Kyoshi" were also used. After that, "Kyoto", "Kyo", "Kyoto", etc. gradually became established as proper nouns for referring to Heiankyo.How to call "Cho-an", "Raku-yo", "Raku"Heiankyo was also called Raku-yo, Cho-an, etc. in ancient poetry after the capital of the Chinese dynasty. According to one theory, Heiankyo was divided into east and west, and the west side (Ukyo) was called "Chang'an" and the east side (Sakyo) was called "Luoyang". It is not clear when these names were established. "There is no record of naming, and it is unlikely that these" Chang'an "and" Luoyang "were official names, but rather literary graceful names. ". The name "Chang'an Castle" disappeared once in the middle of the Heian period, and reappeared after the end of the Kamakura period, after Toin Kinkata added "Tokyo Luoyang Castle, Saikyo Chang'an Castle" in the Shoshosho. Is. However, the Ukyo, that is, the "Chang'an" side, soon disappeared due to the large number of wetlands, and the city area became virtually only Sakyo, that is, "Luoyang." For this reason, "Luoyang" is a word that refers to Kyoto, and it is said that the word "Luoyang" alone means Kyoto. There is an example of the Chinese poetry written by Minamoto no Shitagō (911 - 983) in "Honcho Monzui", which refers to Heiankyo and is called "Rakujo". With this, it is considered that the custom of expressing Kyoto with the single character "Raku" was established from early on. According to the "Heian Period History Dictionary", Luoyang and Chang'an, which appear in the literature of the early Heian period, are not considered to refer to Sakyo and Ukyo, respectively, but both are considered to refer to the entire city. It is thought that what was also called Luoyang later came to be used only in "Luoyang". The inside of the Kyoto area was called "Rakuchu", the edge of the Kyoto area was called "Rakuchu", and going to Kyoto from other than Kyoto was called Joraku. Although it is a special case, the name "Shimoraku" can also be seen in The Tale of the Heike. This meant that Yamaboshi invaded Kyochu.The name "Luoyang" still remains in the proper noun such as private Rakuyo General High School.Regarding "Raku", even now, going to or coming to Kyoto, that is, entering Kyoto, is sometimes called "Raku". In addition, today's expressions such as "Rakunan," "Rakuhoku," "Rakusai," and "Rakuto" are all expressions that refer to the south, north, west, and east of the outside of Kyoto, but these expressions are also Kyoto. It is established by pointing to that with the character "Raku".HistoryHeian-kyoKyoto is a millennial capital that began when Emperor Kanmu relocated to Heiankyo in 794, following Nagaokakyo in 784. There are various theories as to why the capital was moved to Kyoto. For example, the theory that Fujiwara no Tanetsugu, who was in charge of construction of Nagaokakyo, was assassinated, that Nagaokakyo was often flooded by the flooding of the Katsura and Obata rivers, and that Prince Sawara's grudge theory in Nagaokakyo.Heiankyo is said to have been selected as a land suitable for Feng Shui in China (“land suitable for the four gods”), and it opens to the south and is surrounded by mountains on the other three sides. While flowing to the south.The Kyo area was a rectangle about 4.5km east-west and about 5.2km north-south, and had a square block inside. In Heiankyo, these blocks were based on the center line of the street, so the difference in the width of the street created a difference in the area of the residential land. It never happened. Originally, I should have visited Rajo, but I set up Rajo-style fences only on both sides of Rajomon. From north to south from Ichijo Oji to Kujo Oji on the north side, from east to west from Tokyo Goku Oji to Nishikyo Goku Oji, Ouchi Ura including the Imperial Palace and government offices is between Ichijo Oji and Nijo Oji, (east) between Omiya Oji and Nishi Omiya Oji. It was provided. The current Senbon-dori was Suzaku Avenue, which was the central street of the north and south at that time, and Funaokayama, which is said to be the standard for building the city, was located due north. Also, just south of the back of Ouchi, the forbidden garden "Shinsen-en" was set up to serve as a playground for Kiken and a place to beg for rain during a drought. This pond is said to be a remnant of "Lake Kokyo (Lake Koyamashiro)" that spread in the Kyoto Basin in ancient times. The new temples in the Kyoto area were limited to the official temples Toji and Saiji because the political intervention of the temples in Heijokyo was so bad. It is said that the river was replaced when the city was built, and there is a theory that the Horikawa is the old river channel of the Kamo River, but there is some disagreement.Twelve years after the start of construction, in 805, the palace builder who was in charge of Shinkyo construction was abolished due to civilian suffering, and the construction of Heiankyo was completed with about half of the planned Ukyo Ward unfinished. Recent studies suggest that Heiankyo was not an orderly city like the drawings in history textbooks, but a city biased toward Sakyo.With the demise of the Ritsuryo system in the Heian period, it gradually became a city centered on the Kamo River, Ouchi Ura, and the Imperial Palace, and developed economically. At the end of the middle of Heian, Hosei-ji was built at the foot of Mt. Higashiyama, Rokusho-ji was built on the left bank of the Kamo River, and a noble villa was built in Toba. Especially in Rokuhara, the mansions of the Taira clan, which was extremely prosperous at that time, were lined up.Kamakura PeriodEven during the Kamakura period, the imperial court in Kyoto was demonstrating its political function, but in 1185, the Kamakura-dono, which had been strengthening the rule of the East, was allowed to establish a guardian and a priest, and the Kamakura Shogunate strengthened the national rule, so Kyoto became relatively It strengthened its character as an economic city. In the wake of the Jokyu War, the Kamakura Shogunate set up the Rokuhara Tandai at the site of the Heike's home, Rokuhara, to monitor the power of the Kuge. At the end of the Kamakura period, Takauji Ashikaga destroyed the Rokuhara Tandai, and after the fall of the Shogunate, Emperor Go-Daigo undertook a new Kenmu Restoration in Kyoto. After that, Takauji, who had separated from the new government, set up the Northern Court, and in the Northern and Southern Dynasties, there were many battles for Kyoto.Muromachi PeriodWhen the Southern Court declined and the Muromachi period began, Kyoto was revived as a political city due to the establishment of the Muromachi Shogunate, while economic development was achieved, and a tradition of autonomy by influential citizens called townspeople was born. Contrary to the custom of not building a samurai mansion in Kyoto, Takauji Ashikaga set up a mansion in Oike Takakurabe, and the samurai went into the city one after another. Yoshimitsu Ashikaga built a mansion called Muromachi Palace in Kitakoji Muromachi (Kamigyo Ward) and remained the residence of the shogunate until it was burned down by the Onin War. It is said that the origin of the present Little Kyoto can be traced to the introduction of urban development in Kyoto at that time.Warring States period, Azuchi-Momoyama periodDue to the Onin War, which was the beginning of the Warring States period, most of the city, especially the north side, was burned down and devastated. After that, he was often involved in the war. Around this time, Kyoto was divided into Kamigyo and Shimogyo, each surrounded by a "structure." During that time, it was said that it was a field, and it was barely connected by Muromachi-dori. Katsuya Seta, a medieval historian, said that before the Onin War, Kyoto was constantly expanding due to the rapid increase in population, and it was difficult to grasp the outline and structure. It states that it has become a city that has become a city.After this, it was reconstructed with the protection of Nobunaga Oda and Hideyoshi Toyotomi and the power of the townspeople. In particular, Hideyoshi's urban remodeling was a large-scale one, and due to the construction of a huge ring of Odoi, the inside and outside of Kyoto (Rakuchu, Rakuchu), where the area was obscured by the war, was confirmed (line drawing). ), Construction of Jurakudai and Samurai Town, repair of the inner lining and construction of Koike Town, construction of the Imperial Palace, construction of Teramachi and Teranouchi, which gathered the temples scattered in Rakuchu, and the urban structure is often still used today. Can be confirmed. Hideyoshi retired to Fushimi in 19th year of the Tensho era, but when Hidetsugu Toyotomi, who took over the Kampaku rank in Bunroku 4th year, was harassed, the center of politics completely moved to Fushimi. Even after Hideyoshi's death, Ieyasu Tokugawa entered Fushimi Castle and Fushimi continued to be the center of politics. In addition, the culture that prospered around this period is called Momoyama culture, but the name of Momoyama is that a peach tree was planted on the site of Fushimi Castle, which was abandoned in the Edo period. It was named because it came to be called "Momoyama" from the time it was published.Edo PeriodAfter the Battle of Sekigahara, Ieyasu Tokugawa was appointed as Shogun General at Fushimi Castle on March 24, 1603. Since then, Iemitsu Tokugawa, the third generation, has held a general proclamation ceremony at Fushimi Castle. When the Edo Shogunate was born, the political center gradually moved from Fushimi to Edo, but despite the movement of the political capital, Kyoto remains the national capital, and the Tokugawa administration became Nijo Castle as the base of Kyoto for the Shogunate. Was built, and the Kyoto Shoshidai and Kyoto Town Magistrate were set up and placed under direct control. Since then, Kyoto has a population of over 500,000 as a center of literature and crafts, and has prospered as a city next to Edo, the largest city, and Osaka, the kitchen of the world. Kyoto had a unique position because each clan also set up a clan residence in Kyoto and conducted diplomacy with the imperial court and between the clan, but the shogunate did not like this, for example, when the western daimyo changed to work, he entered Kyoto. Forbidden. At the end of the Tokugawa shogunate, when the political situation became unstable, politics moved around Kyoto again, and the shogunate placed a guardianship in Kyoto, under which the Shinsengumi and Mimawarigumi were responsible for detecting the defeated factions.From the relocation of the capital to TokyoWith the repatriation of the Taisei Hokan on November 9, 1867, the sovereignty was returned from the shogunate to the imperial court in Kyoto, and a new government was born. Kyoto Prefecture was set up in Kyoto. However, because the emperor saw politics directly in Edo, he decided to go and stay in Edo as Tokyo (Yukiyuki Tokyo), and the Daijo-kan (government) was also moved. After that, his return to Kyoto was postponed, and Emperor Meiji ordered the preservation of the Kyoto Imperial Palace in 1877. And the actual whereabouts of the emperor became Tokyo. From then on until now, the capital of Japan has been recognized as Tokyo. This is because the Meiji government, which was established mainly by the Choshu and Satsuma domains, promoted nation-building centered on the emperor, and thought that the actual whereabouts of the emperor were the venue and capital of the festival.For the people living in Kyoto, it was a great emotional shock for the emperor to choose Tokyo over Kyoto and leave Kyoto. Some people in Kyoto still feel that they are emotionally unacceptable. There is a high throne that indicates the emperor's whereabouts in Shishinden Hall), so even now, the capital of Japan is Kyoto. "In 1879, two wards, Kamigyo Ward and Shimogyo Ward, were established in Kyoto under the District, Town and Village Organization Law. In 1889, due to the special city system implemented for three of the city systems, Kamigyo Ward and Shimogyo Ward became "Kyoto City" under the jurisdiction of the prefecture. Due to the amendment of the city system in 1898, the city system equivalent to that of a general city was enforced. From September 1, 1956, it moved to a government-designated city.The current Kyoto prefecture includes Yamashiro province, which includes Heiankyo, as well as Tango province and part of Tanba province, in the classification of the provinces of Japan until the Edo period. The city of Kyoto is widespread in Fushimi City, which was a different city from Kyoto, and the Keihoku area, which is located in the former Tanba Province.Transition of streetsWhen Heiankyo was selected as the new capital in 793 and moved from Nagaokakyo the following year in 794, 33 streets were passed between about 4.5 km east and west, and 39 streets were passed between 5.2 km north and south. , It was neatly divided into a grid pattern. The streets of Heiankyo were burned down and devastated many times during the Muromachi period during the Battle of the Northern and Southern Dynasties (1336 – 1392) and the Onin War (1467-1477). At the time of the reconstruction, the streets were narrowed, and houses were built where the streets used to be, but the location of the streets varies depending on the location of the city of Kyoto. As a result, there were wide and narrow roads, and some roads were not straight. Gradually, shops lined up on the street facing the street, and there was a shortage of land, but the central part of the land divided by the street was vacant. To solve the land shortage in Kyoto, Toyotomi Hideyoshi in the Momoyama period added five roads in the north-south direction in order to effectively utilize the vacant land in the center of each section and solve the land shortage. This worked, and the people of Kyoto continued to increase the number of north-south roads. For this reason, the streets in the current city of Kyoto are no longer in a grid pattern, and compared to the streets in the east-west direction, there are more streets in the north-south direction, the intervals are narrower, and they are surrounded by streets. Many of the land plots are also rectangular.Bombing of KyotoFive indiscriminate bombings by the US military from January 16th to June 26th, 1945 during the Pacific War.1st: At around 23:23 on January 16th, 36 people were killed in the air raid on Kamiuma (Kamimacho, Higashiyama-ku) (more than 40 people in one theory), and more than 140 damaged houses.2nd March 19, Kasugacho air raid (Ukyo Ward)3rd April 16th, Tahata air raid (Ukyo Ward) 2 dead, 11 seriously injured, 37 slightly injured, 3 private houses partially destroyed.4th May 11th, Kyoto Imperial Palace air raid (Kamigyo Ward)5th Early morning on June 26, Nishijin air raid (Demizu, Kamigyo-ku) 50 dead, 66 seriously injured, 292 damaged houses, 850 victims (43 dead, 13 seriously injured, etc. according to Kyoto Prefectural Police data) 109 in total A person is said to have been killed or injured).The details of the damage are unknown due to the blackout.No further bombingAfter the 5th air raid, the air raid on Kyoto was stopped. The reason for the suspension is said to have been the target of dropping the atomic bomb, as Bernard Baruch, who had been at the center of the US government in the past, also took the lead. It was said that the reason why the atomic bomb was not dropped on Kyoto was that there were many cultural heritage with high value in the world in Kyoto, but in recent years it has been said that the theory is not influential. ing.Translated by Google translation