松本道弘ブログ 元祖ナニワ英語道
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(1 /23のつづき)私塾としての道場は「塩」であった。大学は、私とは縁がなかった国際教養大学を含め、砂糖である。単位というニンジンにくらいついていけば、必ず卒業できるから、甘い。大学は砂糖。道場は、その点、「塩」である。英語を学ぶには、sweat, blood, tearsが要る。塩の味がする。砂糖の資格は試験が終れば、あるいは卒業すれば、すぐに忘れられてしまう。塩味は残る。(つづく)
2011年01月25日
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(1 /22のつづき)秋田と同じく縄文度の高い土地柄だけに、意外にTIMEとノーネス・チャンネル(紘道館の必須条件)に飛びつくかもしれない。万博時代(私が英語道二、参段の頃)に、産声を上げた生駒英語道場。ここには、菱研の半田晴久社長(当時同志社ESS部長)が訪れて、みなと同じ英語道を学んだことがある。大物になる器は、この頃から非凡の才を見せていた。(つづく)
2011年01月23日
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(1 /20のつづき)紘道館の前身のナニワ英語道私塾ゆかりの地である奈良が熱くなってきた。平成の竜馬、塩原祥之という星が急に輝き出した。塩原君は、汗を流して私のために人集めし、80名集めてくれた。若い人の間では私は無名(過去の人)だが、この若き説得の達人は、ご本人の魅力でここまで集めてくれた。このままでは奈良にも紘道館が産まれそうだ。(つづく)
2011年01月22日
(1 /19のつづき)彼女を自分に寄せ付ける。人間力とは磁力のことだ。The law of attractionは、人間以外の物質をも惹きつける求心力のこと。ツンドクになってもめげない。より一層奮起する、起き上がりこぶしのような人間でなくてはならない。 この3つのどれが欠けても、TIMEをモノにすることができない。だから、紘道館方式で全国にTIME大学(私塾)を広げる必要がある。弘法大師ではないが、全国のホット・スポットに札所をつくりたい。今年はNONESに協力的な秋田と奈良がパワー・スポットになりそうだ。(つづく)
2011年01月20日
(1 /18のつづき)知識体系があれば、英語のシンボルがわかり、内容が情景と共にイメージできる。だから、日本語での読書量、社会的経験などのトータルが試されるのだ。辞書がなくても「流れ」の掴める人は、かなり情報通の人だ。3つ目。人間力。情報力だけでもTIMEは読めない。健全な批判力が伴っていなければ、精読はもとより、とうてい速読はできない。単語力でうろたえている間、TIMEは永遠にクレオパトラ――手の届かない存在――に終ってしまう。(つづく)
2011年01月19日
(1/17のつづき)武士にとり、「恥」は、譲れない意地、つまりprincipleだ。この有料クオリティー番組は、エリートをターゲットにしているだけに、私の方でも「構え」がいる。この番組の最初から、日本人がTIMEを読めないのは3つの理由があると述べてきた。 1.英語力。読み、聴き、話し、書ける四つのバランスのとれた技能のこと。2.情報力。TIMEが日本の雑誌並みに、スラスラ読めるには、情報力がなくてはならない。外国語が得意であっても、通訳・翻訳ができないのも、情報力の問題なのだ。(つづく)
2011年01月18日
(1/16のつづき)自分の出ている画面を見て、突き放してみると、日本語も英語もまだまだだ。しかし私は現場力というか、ハッタリがある。I know now to fake it. 恥ずかしい。しかし、昨日の私より、今日の私、今日の私より、明日の私と。心技体を修行を通じて伸ばし続けてゆきたい。一生、恥との闘いだろう。そのことを考えると、10日間ぐらいの断食行などラクなものだ。昨年の英文日記「武士道」はホームページ(http://www.english-kodokan.com/index01.html)に。(つづく)
2011年01月17日
(1/15のつづき) 今、ノーネス・チャンネル(インターネットTV )という私にとり「はまり役」(a killer post)があり、しあわせだ。 TIMEが届く。手にとったときから収録までまる一日が勝負。カバー・トウー・カバー読むのは、40年前から習慣(second nature)になっているが、一日で日英バイリンガルで解説をすることは、チャレンジでスリルだ。このバイリンガル・ニュース・キャスターは、憧れの仕事でもあった。英語道七段のときから、自らをゼロ段とした。だから、永遠のゼロを意識したことになる。(つづく)
2011年01月16日
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(1/13のつづき) 独りが一番楽しいことがある。I'm alone by myself. でも淋しくない。By myself。私のそば(by)に私がいるんだから。孤独なんかではない。I'm alone. は独行道。Alonenessは「美」。Lonelinessは「醜」だ。 Aloneness is beautiful. Loneliness is ugly. は私のモットーだ。(つづく)
2011年01月15日
(1/12のつづき)このブログが出る頃、私は信貴山の断食道場で2週間ぐらい「行」を続ける。本も日記も書く。英語もセルフ・ディベート(自己究論)――すべて人間力の強化に繋がる。独りは楽しいものだ。1人だけで思考をグルグル回せる独楽(コマ)になれる。究論(ディベートの訳)も、コマの延長である。その心はspiral logicだ。コマの心棒が「空」だ。(つづく)
2011年01月13日
(1/11のつづき)それでもいい、英語は道なのだ。人の道も、コミュニケーションの道も、その他あらゆる諸武芸も道である。道には始めがなく、終りもない。ただ、だまって歩き続けることだ。泣きたくなっても、じっと我慢して歩き続けることだ。涙なんか見せちゃいけない。人がそばにいれば、空に向って泣こう。上を向くと涙を止めることができるからな。 (つづく)
2011年01月12日
(1/9のつづき)道から外れた日本人にならぬよう、しっかり英語道、そして究論道を身につけよう。 道は行である。sweat, blood, tearsは、すべてしょっぱい。一冊の本を読めば、すぐに英語がマスターできるという、甘い言葉に惑わされないように。砂糖には気をつけよう。いくら英語を学んでも、学んでも、道は遠くなるような気がすることがある。I have a long road to travel before I make it in English. (つづく)
2011年01月11日
(1/8のつづき)おかげで私もバイリンガル、バイカルチャルと呼ばれるようになった。その「核」となる道(the Way)や徳が身につけば、二重人格者や多重人格者にならなくても、英語を自然にマスターさせる。 他流派に、バイリンガルになるには、二重人格者になれ、と暴言を吐く、人気タレント教師がいるが、そういう人に、道(ミチ)についてどう思うか、と問えば、きっと嫌な顔をするだろう。道を粗末にする人は、道に迷うか、道で泣く。道徳的羅針盤(モーラル・コンパス)を失えば、英語、そしてディベートも凶器になる。(つづく)
2011年01月09日
(1/6のつづき)3を闘わせると、6角形になる。ヘクサゴナル・ロジックは、サッカー・ディベートの基本である。英会話からディベートへ入り、3角ロジックを研いた。 そして今や闘わなくても勝てる6角ロジックに開眼した。関西サッカー・ディベート協会の幹部たちは、サッカー・ディベートの製本化を急いでいる。(つづく)
2011年01月08日
(1/5のつづき)これも私流の人間管理学だ。都会人間は「知」で勝とうとする。ゲームプレイヤーが多い。しかし地方紘道館は、「情」だ。その人間力も「自然力」に培われたリーダーは強い。 いずれ、鹿児島県や奈良県にも進出したい。「人材」がいればの話だが。(つづく)
2011年01月06日
(1/3のつづき)マタギ狩人は狼の群れのようにチームで動く。沖縄の琉球紘道館のように、三銃士が守ってくれるからたくましい。 組織のパワーも3だ。情理も3だ。水と火と空が揃って、知(石と風)が従う。いくら英語やディベートで目立つ人でも、インテグリティー(六角ロジックのこと)がなければリーダーシップはとれない。人は石垣、人は城。人も組織も崩れる時は、崩れるものだ。敢えて、救わない。(つづく)
2011年01月05日
(1/2のつづき)金子賢男も平川英二もグローバル感覚の持ち主で、かなり腕(口)のたつ英語の使い手だ。だれも、オレがオレがというタイプではなく、チーム・プレイヤーである。 今年の3月に第1回紘道館(佐藤直人塾頭)の会合が能代で開かれる。雪の内陸鉄道に乗れるのかと思うとウキウキする。(つづく)
2011年01月03日
(1/1のつづき)さて、この3点をおさえたマン・オブ・ザ・イヤーは、秋田の佐藤直人君(元ICEEチャンピオン)に決めた。二度目は落ちるのも覚悟とICEEに参加した。 今回も初段。東北一の英語の使い手。秋田のマタギ・ハンターの主将(シカリ)。秋田紘道館のトロイカをしっかり固めている。(つづく)
2011年01月02日
(12/31のつづき)3.徳(空)。磁石のことである。自他を超越した人間的魅力には、自ずから人が集まってくる。火は「みずから」。空は「おのずから」と、格が違う。この空はトランプではジョーカー、サッカー・ディベートではチームリーダーになる。チームの士気(モラール)を盛り上げていくリーダー、目立たなくても、存在感のある人。紘道館の塾頭は、こういう人でないとつとまらない。(つづく)
2011年01月01日
(12/30のつづき)2.勇。水だけでは美しすぎる。火のような意地を示したか。人に負けない技術を持っているか。その技術も単なるコミュニケーションの道具(これなら筆記試験でもある程度測れる)ではなく、武器になっているか。ICEEで恥をかく勇気があったか。お祭りだから、ICEEは別にランクにこだわらない。水に対し、火は、「オレ(私)がやらなくて誰がやる」と先頭を切ってリスクをとるロマンチストである。(つづく)
2010年12月31日
(12/29のつづき)そして男は...その前に私の審査基準を述べてみよう。3点ある。1.仁(人の裏になって「公」を尽くすservant leadershipを発揮したか)が認められたか。仁とは、law of attractionにより、身を低くして人を惹き付ける水のパワーが認められたか。自然に人が集まる、集めることのできるネットワーキング・スキルは、隠徳の別名でもある。(つづく)
2010年12月30日
(12/27のつづき)恒例の行事。年末に、私の世界(サークル)の中で最も活躍の目ざましい女性をウーマン・オブ・ザ・イヤー(男性はマン・オブ・ザ・イヤー)として発表する。いずれも私の独断と偏見によるものだ。 女は服部真子。ICUの猛女(モサ)。2年連続ディベート大会で優勝して、紘道館の門下生となり、ノーネス・チャンネルのディレクターとして、私のレギュラー番組「『TIME』を読む」の担当をしてくれている。超多忙な私の雑務(ワープロそしてパソコン等技術指導)をテキパキとこなしてくれる、スーパーレディーだ。ICEEにも参加するなど、松本道弘のネットワークの座標軸になったと、自他共認められるようになった。まさにrising star。(つづく)
2010年12月29日
(12/26のつづき)それにしても、なぜ中村敦夫は政治に出たのだろうか???真のサムライは、男であれ女であれ、政治には出ない。出ても勝てないことを知っているからだ。 なぜか。シャーロック・ホームズの演繹法で答えてみよう。政治は妥協のart、そして、game(カケヒキ)だ。しかし、サムライはゲームができない――play for real(真剣勝負)。石のロジックでいえば、矛盾する。したがって、出馬しない。出馬できない。このことは『1時間でわかるディベート入門』で、ディベート形式で触れておいた。(つづく)
2010年12月27日
(12/24のつづき)どうも私は女の扱い方は下手とみえる。最近、浅草で「フーテンの寅さん」など、古い映画をよく観る。やはり、私は裏街道の人間か。 「帰ってきた木枯し紋次郎」もよかった。絵日記に、イメージを膨らませて載せた。いずれブログに...。(つづく)
2010年12月26日
(12/22のつづき)今、尖閣諸島問題で、民主党はミソをつけた。男どもはだらしない。岩下志麻のような姉御肌の女が出てこないか。 ふと櫻井よしこを思い出す。昨年だったか、外人記者クラブで出くわした。「あなたは岩下志麻のような雰囲気がある。刺青をしたら似合いそうだ。首相に立候補するんなら応援するよ...」。例のごとく、すずやかな、いやシレーッと流されたあの笑顔。(つづく)
2010年12月24日
(12/21のつづき)ディレクターの服部でもハラハラするという。カネのある民放や民放化しつつあるNHKに対しても一歩も引かない。高級者向けのクオリティー番組を続けたい。こだわる(Why should I compromise?)番組だ。(つづく)
2010年12月22日
(12/20のつづき)私はこういう自己犠牲精神に富んだ強い女が好きだ。強い女は気配りができる。相手が悪いとは言わない。相手に悪いと自分に厳しい。このやさしさ(惻隠の情といおうか)がサムライの定義とするなら、彼女こそウーマン・オブ・ザ・イヤーだ。 私はいつも独行道。後悔はしない。しかし、このノーネス・チャンネルは、ノーカットで、問題発言(politically correct)も許してくれるので、マイペースで松本節をぶつことができる。(つづく)
2010年12月21日
(12/18のつづき)英語は「芸」。だから芸の厳しさを教えてくれる人は、すべて師になる。木馬館は私にとり、浅草大学の必須科目。私の元にICEEの女三銃士が揃った。真由香、千里、服部真子。 真子は若過ぎるが、刺青をしても似合いそうな、女剣客。今はICUだが、学生時代は剣道部。今年の私の危機(AIUとの衝突、尖閣問題?)から救ってくれた鉄火肌の女。松本人脈の中ではジャンヌ・ダルクだと呼ばれている。(つづく)
2010年12月20日
(12/17のつづき)女座長も舞台という、舞台に命を懸ける、劇団を死守する、と。その執念。強い女は諦めない。縁を大切にする。守る。その覚悟は、男であっても、女であっても同じ。 女座長と二人っきり。化粧を落しても、美人だ。出演中の1ヶ月は一歩も出られず、スタジオに赴くことはできないという。カゴの鳥の身分。芸人とは厳しいもの。こちらから、楽屋へ出掛けるならオーケーとの許可を得た。チーフ・プロデューサーの平山さんが、許可をしてくれるだろうか。(つづく)
2010年12月18日
(12/16のつづき)明日来るTIMEは「芸術」関係であればいいのにと祈り、翌日の朝、差長がこっそりひとりで朝食のために来られるコーヒーショップの場所を、あるルートから聞き張り込んだ。 喫茶店で30分、独りで待つ。これも紙芝居番組のニュースキャスターの仕事なのか。ただ一人の学生を部下にしかできないこの身。でも30分間のノーカットの真剣勝負の番組の収録に命を懸ける。(つづく)
2010年12月17日
(12/15のつづき)毎週新しいタイムを手にして全てに目を通し、リサーチをし、数日間で料理するのだ。37才でNHKの英語インタビューに登場した頃は、1ヶ月に一本。英語参段。1ヶ月から1週間に一本となった。 しかも、一晩で全頁に目を通し、英語と日本語で解説するというのだから、英語道七段以上の私(今はゼロ段とした)でもつらい。しかし、逃げられない。倒れても立ち上がって、やる。一週間で届くTIMEは待ってくれない。(つづく)
2010年12月16日
(12/13のつづき)ノーネスの番組のサムライ・トークには、和服がよかろうと服部が言うので、浅草を探索する。シャーロック・ホームズの新しい帽子、ルーペ、それにやっとパイプまで見つけ、リサクル・ショップで和服を買った。(at an affordable price=手の届く値段で) 自費(カネ)のかかる番組だ。NHKや民放と違い、予算もスタッフも皆無に等しい。今の超多忙の身の私にとり、もっとも心身共にきつい仕事だが、それだけやり甲斐のある仕事だ。(つづく)
2010年12月15日
(12/12のつづき)70歳でカムバックすると公言し、それがノーネス・チャンネルでキャスター(紘道館HP参照)という夢の大役を張り始めた私の眼にも、たしかに、ネットワークに強い女の時代という感じがする。(つづく)
2010年12月13日
(12/9のつづき)それにしても、あの若さで座長。この男の世界で。しかも女座長。その日の木馬館は超満員、超人気の劇団。 その日の日記に、「武士道も女の時代」と書いた。男の涙を誘う男役を女が演じる。そういえば、武士道企画に群がる人脈も女が主流を占めるようになってきた。(つづく)
2010年12月12日
(12/8のつづき)座長、座長――。満劇団の若座長・大日方皐扇に観客の掛け声が続いた。本日の外題(11月10日)は、「男の生涯 雪ざんげ」。涙の中に笑いを織り込むのは、上方風。親しくしていただいた藤山寛美を思い出す。 ノーネス・チャンネルの若き女ディレクター・服部真子に「きっと大阪の劇団だ」とシャーロック・ホームズの帽子の私がいう。「しかし、たしか博多って書いてありましたよ」と彼女が答える。いや私の演繹推理では、上方だ、と譲らず、独りで聞き込み、大阪劇団とわかった。(つづく)
2010年12月09日
(12/7のつづき)しかし、それじゃ90%のテレビ視聴者(快を求め、不快を避ける)を遠ざけてしまう。そこで「風」のごとき即興性がいる。「笑い」には気を配るつもりだ。3パーツのトータル30分番組で、スイッチ・オフ(いやシャット・ダウンか)されないため、気を抜くわけにはいかない。心はサムライでも、振舞いは芸人のそれである。だから、芸人の生き方が気になる。再び浅草大学の必須科目「木馬館」に出席しなければならなくなってきた。芸の心とは何か。(つづく)
2010年12月08日
(12/6のつづき)この火の情熱とプライドは、命取りになる。決して傲慢(ヒューブリス)に走らぬよう、水の心でバランスをとらなければならない。 娯楽番組(edutainment)という哲学(石)は崩せない。NHKや民放でもこの魚雷番組にはかなうまいという石のごとき信念は貫かなくてはならない。(つづく)
2010年12月07日
(12/4のつづき)今、人生で一番しあわせだ。毎日毎日が充実している。ノーネス・チャンネルのキャスターという仕事が私にぴったりだ。リングという死に場所が見つかった。この挑戦がなんともいえない。明日、TIMEが届く。カバー・ストーリーは何か。手にしてからの数日が勝負。一晩でバイリンガル、30分番組向きにまとめるというワンマン・タスクフォースのチーフは、世界広しといえど、この私しかいない。(つづく)
2010年12月06日
(12/3のつづき)それなら「公」ではなく、「私」だ。文学死した三島と英語道に殉死した私とは、同類相憐れむ仲になる。(licking each other's wounds) 今の私の三島観は百八十度違う。尊敬から親愛。師から友人に変った。私は老衰を嗤わない。醜いとも思わない。そう思う心がすでに醜いのではないか。私を老人、だから過去の人と思う若者がいれば、私から去るがよい。追わない。去るものは追わず、来るものは拒まず、は20歳の頃からの私のモットーであった。武士道の延長としての英語道の心は、不変のまま――Grow younger. である。(つづく)
2010年12月04日
(12/2のつづき)三島に対する私の感情は、たとえ彼の死が「私」に近いものであれ、彼に対する親愛の念は、いささかも消滅しない。むしろ、もっと身近に感じるようになった。いかに、私が「公」に目覚め、亡父が私に期待した廸紘(八紘一宇から)という言霊を再認識し、弘道館を糸ヘンの紘道館に変えようとも、私が公のために、いかほどの実績が残せるかどうかは未証明である。あれは、英語と心中した男だと笑われるかもしれない。(つづく)
2010年12月03日
(12/1のつづき)三島を一番よく知っていた(死を予感していた)母は「コーイ(公威)さん、さよなら」といったそうだ。「どえらいことをするから、驚かないでくれ、おっかあ」といったとき、カナシバリにあったのでは、と小島さん。 白虎隊の飯沼少年と別れる前に残した、母の言葉とは、違う。梓(あずさ)弓向う矢先はじげくとも、引きな返えしそ武士(もののふ)の道。三島の死は、どこまで「公」であったのか。ただし、公威のキミは、確実に国家(君主)を意図した言霊ではあるが――。(つづく)
2010年12月02日
(11/30のつづき)山中湖畔の三島由紀夫記念館を訪れ、松本徹館長と小島千加子さん(文芸評論家、詩人)の講演を聴いた。三島由紀夫は、魂の死を恐れていたことは確かだが、あの死は文学者の死であったと知った。王陽明にはまったのも、パーフェクトな文学死のために利用したに過ぎない(徹氏)とのこと。新潮時代、三島由紀夫の担当編集者であった、小島千加子さんも、三島さんは、年寄りはきらい、醜いと言い続け、彼女の前で「やっぱりぼくは小説しかないのかな」と淋しそうに仰っていました、という。どうやら、三島由紀夫イコールさむらいという図式は存在しない。(つづく)
2010年12月01日
(11/29のつづき)英語教育界の"華"という異名もない。半ば死ぬ覚悟で、中国、チベット、ネパールを独り旅した。生きて帰ってきたのが奇蹟だった。妹の幸子(奥村)や他のMDIの社員にも迷惑をかけた。前妻と縁がなくなったのも、私の我儘のせいだ。とにかく、生きて帰国。もう魂は消え失せていた。抜け殻。あの夢の中で三島由紀夫と語り合ったときからだ。この頃の心境は『0の発見』(今は絶版)の中で触れた。ときどき、私は今も、夢の中で山野を駆け巡っているのではないかと思うことがある。(つづく)
2010年11月30日
(11/27のつづき)尖閣諸島の問題で日中関係がキナくさくなってきた。TIMEも、憂慮している。日本のメディアも騒ぎ出した。三島由紀夫の特集(とくに『太陽』がすばらしい)が増えてきた。 三島由紀夫。私を大きく変えた、男だ。彼が死んだ46才までは、生きる。あとの人生はおつり、と豪語したのは、30才寸前の私であった。あの時、同時通訳の師匠、西山千との出会いがなければ、今、ノーネス・チャンネルのキャスターなどやっていないだろう。(つづく)
2010年11月29日
(11/25のつづき)チーフ・ディレクターの平山さんは、かつてアメリカで特攻隊の番組を組んだ、サムライ・ディレクターであるから、呼吸は合っている。ラジオの松本亨、テレビの國弘正雄、そしてインターネット時代の松本道弘(アエラ・イングリッシュ)。この二人に、ICUの猛女の服部真子ディレクターが加わり、たった3人。この低予算番組で大海に乗り出そうとしている。週毎に変わるTIMEを速読するだけではない。分析し、調査し、バイリンガルで発表しなければならない。毎週胃が痛む思いだ。しかし、職人カタギの私には、そのスリルが楽しい。手にした新しいTIMEを瞬時に料理する板前のようだ。(つづく)
2010年11月27日
(11/24のつづき)視聴率1%が百万人。それがかつて9%近くまで登ったという超豪華番組も、ついに轟沈した。ノーネス・チャンネルは、たとえ数百人をターゲットとした小型プロジェクトでも、松本道弘という人間魚雷がいる。めったに沈まない。チーフ・ディレクターの平山さんは、かつてアメリカで特攻隊の番組を組んだ、サムライ・ディレクターであるから、呼吸は合っている。(つづく)
2010年11月25日
(11/23のつづき)NHK時代とは違って、紙芝居のような有料番組。しかし、思いっきり好きなことが、しかも英語が使い放題。松本節が通せる。ノーカット番組だから、花と散っても悔いはない。「英語でしゃべらナイト」番組で言った、「私の英語は日本刀」「シーズン2は英語で勝たナイト」にしろと吼えた。「画面に向って、英語を勉強しろ――」と吼えてカットされた。また戻りかけたNHKとの縁もなくなった。(つづく)
2010年11月24日
(11/22のつづき)病院へ行く時間、理髪店へ行く時間もままならない。それでも、この歳で私にとり最大の挑戦が毎週待っている。ノーネス・チャンネルだ。インターネット・TVチャンネルで有料だから、視聴者は少ない。TVはすべて初心者向けの番組。それに対抗する番組だから、まるで風車に挑むドンキホーテ。まだ始まったばかり。三ヶ月でテーク・オフしなければ、この企画は沈む。しかし、私は後悔しない。(つづく)
2010年11月23日
(11/21のつづき)とにかく、超多忙な毎日となった。挑戦の毎日。私にとり毎日が嬉しい悲鳴。平和なときには、お声がかからないが、乱世になると、どこからともなく、オファーがくる。このブログが出る頃には、ワールド・フォーラムでのサムライ対談(松本道弘 対 ベンジャミン・フルフォード)は、終っているだろう。日々是決戦。日々是戦場。(つづく)
2010年11月22日
(11/19のつづき)このアリアの熱唱で何を私に訴えたかったのだろうか。 「私というスズムシを愛さないで、スズムシの言葉だけを愛してください。そして、私のあとにくるスズムシも私同様に可愛がってやってください。その音楽を。私は死んでなんかいません、その音楽の中に生き続けているのですから」(つづく)
2010年11月21日