恩師から受け取った種(過去と現在の再会)
「あるべきはずの国の名がなぜないのだろう・・?」中東に位置し世界で現存する中で最も古い都とも言われる「ダマスカス」のスーク(市場)のそばにある茶屋で旅の安息を取っているときのこと、ふと壁に貼ってある地図に目を向けると、そこには僕の中で認識していた「イスラエル」という名はなく「パレスチナ」とだけが書かれていた当時、僕は20代の後半それが「その場で通りすがりの異邦人が決して質問するべきではない」質のものである事は分別としてかろうじて兼ね備えてはいたものの、(そもそもアラビア語が判らないのですが・・)少なからず考え込むことになった。自分が疑いなく「知識」あるいは「基準」「常識」として思い込んでいたことはある一方が定めたものでもあり、視点が異なれば当然ながらそれらは異なってくるということ、そのうえで「自分の眼差し」というものを、一旦ニュートラルにするためにどう学び、育むべきかについて・・そして、この旅の少し前に単身オーストラリアに教師として成田から旅立った小学生時代の恩師である担任の先生から学んだ授業の事をふと思い出していた当時、絶対的な存在であるものと思い込んでいた「教科書」を尊重しながらも、そこに疑問を感じ必要があると判断すればそれを一旦、脇に置いて自らで新たなメソッドを再構築する。その労力を厭わず手書きで記されたプリントで受けていた授業の確かな手応えと、一度、自分自身の頭で考え直してみることを真摯に伝える先生のあり様、そしてそれこそが僕にとっての「気付きの種」であったことを先月、札幌でそんな小学生時代の恩師と同級生に逢う貴重な機会に恵まれた。もちろんアラブの旅の話はしませんでしたが,北の恵みの幸と談笑を交えつつ今も変わらず学ぶ姿勢を自然な形で継続する現役の恩師と、当時、その時間と空間そして「種」を共有した同級生たちとの会話から気づかされることは本当に多い!(鋭く飛んでくる容赦のないツッコミも何かしら記憶を揺さぶるみたいです‥笑)僕は、教員にはならなかったけれども、「フラメンコギターを教える」という生業の中で、自然に当時の授業の影響を受けながら自分で内容を再変換している事に気づかされます時を経て、それぞれの生活、あるいはそれぞれのステージで、それぞれが受け取り様々な形で育まれてきた種たち・・そんな過去と現在を共有できる場があることに心から感謝したいそして決して忘れてはいけないのは、僕自身が怠ってきたであろう目立たないところでの細やかな心ある配慮とそして行動されてきた方の恩恵に預かってきての現在のつながりであるということを・・感謝を込めて渕崎昭彦※ その後、先生のメソッドは札幌市(北海道)教育委員会に認められスタンダードになったと知らされました。また当時手探りだったのかもしれませんが、「性教育」の分野でもモデルケースとして、関係者を交えての公開授業等も積極的に行われており、恐るべしパワーに今更ながら感服です!