斎藤 環 「生き延びるためのラカン」再読
以前読んだ時、これといった印象は残らなかった。しかし、浅田彰の「構造と力」でラカンがフィーチャーされていたので再読することにした。まず、著者がラカンの思想の邪悪さをやや増量したポエム風の文章を掲げていた。曰く「この世界に意味なんてないじぶん探しに答えなんかないこころが癒されました生きていて良かったこころが傷ついた絶望だ、死んでしまいたいでも、それはみんなナルシシストのはかない幻想そう、たとえそれが「愛」であってもねほんとうに愛されていたのは鏡に映った自分の姿でも、ふと気がつくと鏡のこちら側には誰もいない」、となる。一方、私の世界は意味に満ちている。じぶんを探したことないが、そもそも、最初からあった。癒されたことも傷ついたこともあるし生きてきて良かったと思ったこともしばしばあった。でも、ラカン、及び、著者によるとと、それは、ナルシシストである私のはかない幻想となる。これはもう、大きなお世話というしかない。要するに、主体というものはないと言いたいのだろう。それは、「欲望とは他者の欲望である」という言説によく表れている。だが、私に言わせれば、それがまず、他者の欲望であろうが自分の感性や考えの好みにフィットした他者の欲望こそが自分の主体なのだ。なにもそこで、わざわざ、主体を消す必要はない。それは、自分の中に強烈な好みを持たない希薄な自己を持ち他者の欲望にいちいち振り舞わされる人間の逃げ口上なのだ。