100分 de ナショナリズム
ナショナリズムが本国から差別された植民地生まれの白人から始まったというのは意外だった。そういえば、アメリカもそうだった。ソ連の支配から解放された後、他民族との軋轢があった東欧で起こったのも理解出来る。移民や難民を嫌うイギリスや西欧もそうだろう。西欧列強によって無理やり一緒くたにされていたアフリカも同様だろう。同じく西欧列強の脅威に晒されていた明治の日本も。要は、外部の脅威に対してナショナリズムは勃興するのだ。後、不遇な境遇に生きる不幸感を強く持った人間がナショナリズムに傾倒するのも理解出来る。彼らは、天皇等、権威と自分を結び付けることによって一体感を得ようとする。イスラム原理主義のIS,オウム真理教、共産主義、皆そうだろう。最終的に目指すのは個の区別が無くなった単一の液体のような一体感だ。私には極めておぞましい。そもそも、人間は多様である。仮に、自分たちが気に入らない人間を全員虐殺しても、自分たちの子供は多様だろう。兄弟姉妹でも性格は違う。なにか一つのことで全員をまとめることなど所詮無理なのだ。人間は、最低限のルールでなんとかやってゆくしかないのだ。