千葉雅也 「動きすぎてはいけない」3
千葉雅也は言う。「ヘーゲルの論理学では、純粋な存在と純粋な思考から始め、それは一旦、無であると認める。無と存在の統一によって生成の概念を得、そして、生成の結果としてのこの現存在へ向かう。しかし、このように、外枠から絞ってゆく眼差しでは、他の事物ではなくこれであること、つまり、此性に対し、いつまでも間接的でしかない。他方でベルクソンは、他ならぬこの事物の本性の差異としての現前、与えられを直に経験するという直感を求めていた」と。なるほど。そして、「存在は事物の差異それ自体でる」と続け、更に「本性の差異の本性とは、ベルクソンにとっては持続、すなわち、時間の連続的な差異化に他ならなかった」と続ける。その後、ドゥルーズから「持続とは自己に対して差異化していくものである」を引用し潜在的な持続において、事物は相互浸透しながら変化を続け決して完了しないと結論付ける。甚だ明快である。ベルクソンの難解な持続の概念に触れた気がした。そして、サルトルの投企やカントの「創造が完成することはない」等も連想する。だが、持続にも美しいものと醜いものがあるだろう。