「己が悟れば菩提と化す」ことの意味
『心行』のなかに『六根あるがゆえに 己が悟れば菩提と化すことを悟るべし』とありますが今ひとつピンときません。調和のとれた生活をするための中道の心中道の心になるための八正道の実践仏陀は八正道の実践により悟りを開いたといわれております。私たちからとらえた悟りとはどのようなものになるのでしょうか?段階的に自分の心の器が大きくなる・・そのようなものととらえればよろしいのでしょうか?というご質問の書き込みがありました。通常なら掲示板に書くのですが、今回は私の見解をこちらに書く事にします。番外編という事でどうぞ。関心のある方は、こちらもご覧下さい。http://bbs7.fc2.com/php/e.php/selabo/ 心の修行、魂の向上というテーマは、この世、あの世に関わらず全て同じです。どこにいても、神の意識に戻るために心を大きくしていく修行なのです。修行の場は、二箇所あります。一つはあの世。そして、今生きているこの世という環境。まずあの世について。あの世は、自分自身と同じ波動、波長の世界です。一言で言えば、似たもの同士の集まりです。地獄界でなければ、さほどストレスもないでしょう。自分と同じ傾向性の人たちの集まりですから。地獄界は、ストレスと苦しみと、不信と絶望の連続体の世界です。それも心の状態に応じて、段階があります。ここでは、激痛のような苦しみが休む暇なく襲ってきますから、心の修行など苦しくて出来ようもありません。ですから、その世界は別にしておきます。本人が気づくまで、という事ですが・・・いつ気づくのでしょう?高い世界からの救いの手が差し伸べられないと、自助努力ではまず不可能に近いでしょう。しかし、元々いたあの世の世界では、特別に心を向上させるような刺激も、また心の波動を落としてしまうような出来事もないのです。その中で、いくら毎日が楽しかろうが、いつも平安な心があり、私の心は永遠に平和だ、と思ってみても、それは温室栽培の中に守られているようなものです。昔の王様のいるお城の中で住む、お妃や王子様が、外の生活を知らずにお城の中だけで、楽しい生活をしているようなものです。その環境の中で、心が成長した、あるいは一つまた新たな悟りを得た、と思ったところで、実際はその温室の外に出で、雨風に降られている環境の中で、温室の中にいたのと同じ心を持てるかどうかが問題なのです。ちょうどこの世は、あの世の色々な階層の人たちが一同に会している世界です。そのため、色々な価値観もあり、自分とは違うことで悩みも、苦しみも沢山出てくる事でしょう。だから、尊敬する人から人生を学ぶ人もいれば、逆に反面教師になる人もいるわけです。今生きているこの世の世界は、温室の外側の自然の猛威に吹きさらされているような世界なのです。この世界で、外部の影響に動じないだけの、強い心を持てることが、本当の心の修行であり、また魂のまたとない向上のチャンスになっていくわけです。良い環境では正しく見る、正しく思う、正しく行動する・・・という事は、誰でも出来るでしょう。しかしこの娑婆世界ではどうでしょう。分かっちゃいるけれども・・・あいつは許せないとか、我慢が出来ないとか、理屈では分かっていても、外部の刺激によって色々と翻弄されていってしまいます。学校でも、また家庭でも、人を殺してはいけないと教えているだろうに、なぜ毎日のように殺人があるのでしょう。それだけ、この世での心の修行は難しいのです。それを、あの世にいた時の心に戻って、この今生きている世界で実現してみる。色々な誘惑や、ストレス、葛藤と戦いながら、それを乗り越えて、心の平安を得ていく、という事は、あの世に戻ってしまうと中々出来ない事です。いやな事があるからこそ、その刺激によって、逆に心が鍛えられていく、それに加えて神理を知っているから、それが出来るのです。この世でしっかりとした環境に振り回されない心を作る事は、苗木を樹齢、数百年、数千年の大木にしていく事と同じです。それが、煩悩即菩提です。菩提樹の木は、本当に太いですね。太くなるには、年月が必要なのです。人の心もそうですよ。悩み苦しみをホンモノの強い、負けない心で克服していく。そして何があっても、常に一直線に天の世界に心を向けられる心を作っていくのです。悩み苦しみがなければ、そのような心になったつもりでも、強烈な嫌な出来事があった場合、砂上の楼閣の如く、何かあるとすぐに崩れ去ってしまうのです。そしてこの様な修行は、あの世に戻っては出来ません。あの世で平安な心で生活していても、 この世という違った環境に行ってしまうと、その心が保てるかどうか怪しくなります。今ある心が平安で、どんな事があっても、その心の波動を落とさない、むしろ一歩でも、心のレベルを上げていく、それが大事です。だから、この世では良い事も、悪い事も、全て大事な経験なのです。自分にとって、悪い事は、本当に悪い事だったかどうかは、受け止め方一つなのです。勿論この世も、早く平和なユートピアになって欲しいですし、悪も消滅して欲しいと思います。そして、あの世の高い次元の世界の心が、反映される世界になって欲しいですが、しかし、それとは別に、もう一つ、あの世の天上界ではありえない出来事・・・・それは災い、不幸という現象です。そして、それらがあったとしても、それがあるから、あの世で生活していた、安定していたはずの心が、本当にそれが揺るぎないものであったかどうか、テストできるわけです。この世のでの、心の修行は、二つの目的があるのです。くり返すようですが、恒久的な平和でユートピアとも言われる社会にしていく事。もう一つは、何があっても崩れない、また自ら崩さない心を心の芯からしっかり作り上げる事。この世の悪い事は、いやな事ではあります。その事で心を暗くして、どん底に落ちてしまったら、本当にいやな事になります。でも、そうなってしまった人の心は、実はあの世で生活していたときの心は、とても薄っぺらな心だったという事になってしまいます。風が吹いたら、すぐに倒れてしまう心だという事です。でも、どんなに悲惨な事があったとしても、常に心を落ち着かせ、取り乱さず、冷静に愛と慈悲の心で満たされている人。あの世で生活していたままの、穏やかな心でこの地上でも生活できる人の心は、ホンモノです。その事を通じて、さらに大きな心となって、あの世に戻る時は、もう一段階上の、より神の心に近い世界に戻るかもしれません。それが人生上における魂の修行です。あの世的に捉えると、人生でおきてくる事象への捉え方は、大分違ったものになってきます。この事を書いている私本人も、泣きたいくらいに悲しい事もあるのです。死にたくなる事もあるのです。でも、大局的な捉え方で見ていくと、またその苦しみ事態に、人生の意義を見出せるかもしれません。そのようにしてなる事、どんな環境にあっても、環境負けしないだけの大きな心、しっかりした心を作っていきたいものです。八正道の実践は大事です。その事を通じて、今の環境に、あるいは突発的な災いに動じない心を一つひとつ、作り上げていく事が、悟りへの道だと思います。そして悟りの到達地点をイメージされる事は大事でしょう。しかし、八正道を知らずとも、今あること一つひとつに対して、どんな事であっても慈愛の心で全てに対して、表現し尽くす。行為一つひとつに、真心を尽くしていく・・・それが何よりも大事だと思いますし、それが悟りという階段を一歩ずつ登る行為ではないかと思います。そのような観点でいけば、八正道や、また宗教的なことを知らずとも、その人は、悟りの階段を知らず知らずのうちに、上っていっている事でしょう。悟りの道は、何も知らずとも誠心誠意生きていくことの中にあると思います。ダウジングに最適!ペンダントトップ(ペンデュラム)【ジャスパー】