「インドのゴービ師の説く瞑想法-2」
どんな悪いことをしても、心から懺悔すれば赦される。われわれは、自分の心に正直でなければならぬ。瞑想によって、愛が、調和がひろがる。自分の行為を、夜寝る前に反省をして、朝、瞑想すれば効果がある。反省をしないと瞑想にはならぬ。沈黙は大事である。冗舌の人は心をきれいにすることはできない。瞑想の目的は、無限なるものに、われわれの波長を合わせることである。病気は不安、緊張によって、肉体細胞が正常な働きをしなくなるのであるから、心の中から不安、緊張をなくして心を安らかにすると、細胞もまた正常に活動するようになるのである。病気は、個人に属するもの、集団に属する社会的なものもある。日常繁煩なしごとをしていると、心は物質的なものに執着しやすくなる。いくらかの時間を魂の根源に振り向けることが必要である。地球はわれわれの本当の棲家ではない。われわれは生命の巡礼者であって、一時期この地球で生活するのである。われわれは、自分がなにものであるか、本当の自分を知りません。また、どこから来たかを知りません。こうした本源的なものに自分を立ち帰らせるもの、それが瞑想であります。瞑想をするには、心が散乱しない落ち着いた場所を選ぶ。できれば、毎日決まった場所で、同じ時間にするのがよい。座り方は自由である。決してむずかしい坐法は必要ではない。自分の気に入った坐り方でよい。長時間坐れる坐り方がよい。蓮華坐法(結跏趺坐)は普通の人にはむずかしい。手掌は膝の上に、背筋を伸ばして、極くわずかに頭をほんの少し垂れる。顔を上げて上を向くと高慢な心が起こる。坐るとつぎつぎに雑念が浮かぶ。雑念が浮かぶ時は瞑想に入らぬほうが良い。雑念が浮かんでどうしようもない時は、横になる。本を読む、散歩をするなどして心の散乱がしずまるまで待つ。出来ない時は無理してしないほうが良い。散乱した状態で形だけしたのでは、いい結果を見ません。心は自分自身の内に向け、神、仏、幸福、慈悲、愛が自分の中にあると観ずる。瞑想をする人は日常生活においても規則正しくあることが大事である。仕事の関係できつい仕事をしている人は、瞑想は軽くやって、反省するほうが良い。集中しないで神のことを考える。瞑想するには肉体を安定させる。坐っても、掛けても、ゆっくりとやる。たくさんの神がいるが、それらは人間がこしらえたもので本当の神ではない。光明、至福である。すでにそのままあることを認める。求める心をなくする。われわれの心は守られている。精神的価値を実現するためには瞑想がどうしても必要である。正しいものに近道というものはありません。裏口というのもありません。その道は、ひたすら謙虚に従わなくてはいけないのです。正しい原則に従って正しく行動するということが真理です。人類に対する限りない愛を持って、悩めるもの、貧しきものを助けることです。祈りつつ人に施しを行い、簡素な生活をすることです。瞑想をする前にはんせいをすること、瞑想は八正道の実践をしてするべきこと、心を内に向けて、すでにそのままある神理を認めることであること、霊能を求めて瞑想してはならないこと、そうして、姿勢においても呼吸法についても、それは私が(園頭先生が)教えている瞑想と同じであった。正法誌第36号 1981年8月号より抜粋7月20日・品川セミナーのお知らせです。詳しくは、こちらをご覧ください。http://plaza.rakuten.co.jp/hhokari/022001ほしいものを引き寄せようとしても失敗するのはなぜか―。理由は、感情の処理方法にあった。感情を「クリアにする」方法を知り、そして「クリアでいつづける」ことこそが、奇跡を起こす“キー”だ!これまでの自己啓発書・啓発プログラムがとりこぼしてきた重要な秘密のひとつが「クリアリング」であることを10の具体的方法に分けて詳説する、まったく新しい実践的バイブル。