「善意の虐待」と映画「ゲド戦記」
今年の私の夏休みは、映画「ゲド戦記」で終始した。ネットの「ゲド戦記考察」フォーラムではずいぶんといろいろな議論もできた。若い人を中心に絶賛する人がごく一部ではあるけれどいて、一方で、圧倒的な「許せない」という思いの批判、攻撃をする人がいる。確かに映画の出来は映画の流れや脚本、映像の完成度等に「?」というところがあり、特にジブリファン、宮崎駿ファンには辛いところが多く、また、なによりも原作をずたずたに引き裂いて、世界の原作ファンを怒らせたということも否めない。それから、宮台真司なんかは、「セカイ系」の表出でしかない、という視点で批判している。それでも、「不出来な映画をみせられた」「ジブリなのに子供が楽しめない」というだけにしては、あまりにも攻撃的な批判レビューが目に付いた。どこか、本質的に「見たくないものを見せられた」ということがあるのではないか、という気がしている。で、「善意の虐待」である。何一つ不自由なく、立派な両親の下で育てられたはずのアレン王子が生きる気力を失い、出口を求めて壊れて荒れてしまった、そのプロセスが映画では省略されてしまっているけれど、絶賛した人たちは、「何が不満なのかわからないけど息苦しくて辛い」自分自身をアレン王子の混乱と衝動に重ねていたのではないかと思う。「誰にもわかってもらえるはずがない」という思いととても良く似たものを見つけることで安心したのではないか、と。映画のエンディングはアレンの旅立ちで、本当に父王を殺してしまっているのなら、国に帰ったところでただ極刑がまっているだけのはず。アレンの内部ではふに落ちたところができて、少し成長しているけど、とりかえしのつかない事態を引き起こしてしまっているので救いはない。当然、「均衡の崩れた世界」も救われない。そんな映画に希望をみることができるのは、よっぽど「誰にもわかってもらえない」という思いが強いんだろうという気がする。一方で、反発、攻撃の背景には、自分たちの「善意」「価値」「よかれと思っていること」を否定された思いがあるのではないか。もちろん、映画やアニメの制作という視点から、「手抜き」「ジャパニメーション」の質を落とすという批判だって当然ある。原作と原作者、原作ファンの期待を裏切ったことへの怒りもわかる。でも、「良い子ブランド・ジブリ」への信頼が裏切られたことへの怒りが圧倒的に強いような気がしている。