回収完了
回収完了。次男がデイサービスで描いた絵が宅配便で届いた。着払いで1370円なり。これが最終のはずだ。複数回そう思ったことがあるけれど、今度こそ、最終のはずだ。次男は、美術教室で、4年間以上も立体のクッションを作っていたので、先週の土曜日に受け取って、紙の大きさを分別して紐でくくり上げて、宅配便で発送してくれるように手配した大量の絵は、すべてデイサービスで描いたものなのだった。とんでもなく、大量である。そして、1枚も、まともに描き上げた絵がない。次男の時間が無駄にされたように感じる。とにかく大量なのだ。なぜにこれだけ大量のしかも同じ絵があるのか。活動支援B型:障害のある人に対して、通所により、創作的活動の機会を提供し、社会との交流の促進、日常生活に必要な便宜の供与等を実施することにより、自立した日常生活または社会生活を営むことができるよう地域生活を支援します。という説明を受けたのだけれど、実態が伴わなかったのだ。「美術指導を行います。」と言うことであった講師は、そこには居なかったらしい。素人の指導員が、「絵、買いとき。」と利用者に紙と色鉛筆、クレヨンを与えたのだろう。一番、お手軽な関わり方であったのだろう。デイサービスの連絡帳に「午前、絵画活動。午後、絵画活動」とあった日がたくさんあった。「美術指導を行います。」ということで職員になった講師が、「とにかく絵を描く時間を増やします。」と言っていたが、彼はそこには居なかったらしい。素直で頑張る人の次男は、「描かなければならない。」と思ってひたすら描いたのだろう。適切なテーマもモデルも与えられなかったわけだ。ともかく、描けと言われたら、描かなければならないとがんばる次男なので、同じ絵ばかりを描いて時間を潰していたのだろう。よくもこれだけ無意味な時間を延々と次男に設定してくれたものだ。これは、時間の屍だ。これは、 「静かな虐待」 だ。「その時間をしのぐ為だけの絵」と見える大量の絵を前にして、次男が消化しなければならなかった時間を想う。こうして、「知的障害のある自閉症」は、「知的障害のある精神障害者」に変化させられていくのか。次男は、気に入らなくても、職員を殴るタイプではない。噛みつくわけでもない。我慢するのだ。その次男の上に職員は、アグラをかいたのだ。怒りがふつふつと湧いてきて眠れない。 きっと、私は、ふつふつと湧いてくる怒りを、何日も何ヶ月も持て余すのだ。それでも、息子たちの顔を見れば、「お腹空いてない?」と訊いてやって普通に日常生活をつなげていくのだ。もっと早くに気がついてやるべきだった。私が地域活動支援センターに様子を見に行く時間はほんの一部なのだ。見えていない時間はこうだったのだ。残念でならない。保護者に行うと言ったことを実践していなかった時、普通の子であれば、「あれ?聞いていたことと、なんか違うなぁ。絵の先生、今日も居なかった。音楽?ずっとしてないよ。」と言葉で親に訴えたであろう。知的障害があり、言葉が拙い利用者にはそれができなかった。出来ないことを職員達は充分に知っていた。複数の職員達に、「保護者に行うと言ったことを実行していないのは、信頼を裏切っているのではないか。」と感じる仁義はなかったのだ。誰も、保護者に報告しなかった。今もしていない。私が感じ取っただけだ。もっとも、他の保護者は、私ほど子に関心はないようだ。大人になって身体の大きくなった知的障害者を預かってくれさえすれば、それでありがたいのか。家族がそう思ってもおかしくない人達がいるのは、真実であるけれど。私もいつか、次男のことを、「とにかく出かけてくれたらOK!」と思う親になるのか。イヤだな。私がそうなるまでにあと何年あるのだろうか。私は、次男には、まだわずかながらに「伸びしろ」が残っていると感じるので、この1年余りの時間は、私は残念でならない。健康な知的障害者の寿命は長い。しかし、成長、学習の幅は成人後は小さくなる。いや、成人後どころか、学齢終了後に一気に崩れていく人がどんなに多いことか。青年期は大事だ。親はいつまでも生きてはいない。いつまでも、元気ではない。やがて、親がケアホームに入所しなければならない日が来る。その日が来る前に、気力が衰えて、子の力になってやれなくなる日が来る。60歳までかな。その日を真近に感じながらの1年間という時間は大変に貴重であったのだ。地域活動センターは、職員に迎えた美術教室の講師が、美術教室の大部分の受講生を引き抜いて新教室を設立したことを大変に心外に感じているらしい。元講師に対して「最低の仁義を守ってほしい。」と思っているらしいけれど、地域活動センターも仁義を持ちあわせていない。地域活動センターのデイサービスで、1年間、保護者に述べたことを実行できなかったことを詫びる言葉はない。双方は、同じ人種なのだ。双方とも、知的障害者の擁護者だと思っているところがおかしい。