「私」の個人主義(3)① 再録
【再掲の文章】私自身の拠って立つのは、紛れもなく「個人主義」である。それは、漱石が言ったように「俺は右を向くけれど、他の人が左を向いても構わない」という他者の個人主義を尊重する主義であり、「みんなが右を向いているのから、自分もそうしよう」という同調圧力には、時と場合によっては絶対に屈しない。それは、「他者依存」の正反対の立ち位置であり、基本的に自分のことは自分でやる。そういう自立した個人が集まってこその集団であれば、集団の価値を否定しない。それどころか、そういう集団に所属したいと思う。残念ながら、職業集団は、普通はそういう集団ではない。宗教の集団も違う。大学などの高等教育の集団は、そういう面も強いが、今は、そこに自立した個人があまりいない。個人主義に対する正しい意味での批判はいろいろある。個人の完全な自己決定は、確かに西洋近代主義の到達点だが、実際はそれは西洋文明というエピスメータ(思考の枠組み)に強要された思考であるとする構造主義や、個人はその自由に耐えられなくなって全体主義へと同調したのだというフランクフルト学派等、近代を超克しようとする一連の思想の流れは、一通り承知している。それでも、私が個人主義の立場を堅持するのは、自分の生を他者に委ねることへの嫌悪感があり、他者と溶け合うことで自らの生の意義を確認するということへの断罪感のようなものが強いからではないか、と思う。また、構造主義以降のさまざまな思想が、近代に代わる新たな価値を提示しきれていないということもある。批判は簡単だが、価値の創造は困難極まる。また、一方で個人主義の何たるかも学ばず、勝手にそれを利己主義と同一視し、やたら人のためにと言ってまわる輩への批判意識も強い。【やや長い補注】今、結婚生活をしていける若者世代は、基本的に人生の勝ち組であることが多い。0歳児保育から始まり、私立中学高等学校、旧帝大系国立大学という彼らの子どもの進路の理想像は、いわゆる「パワーカップル」でないと、土台、無理な話だ。自分たちの世代は、給与の高い夫・専業主婦・子ども二人で、子どもの進路は幼稚園・義務教育・進学校・難関大学というのがいわばエリートコースだった。つまり、「自立した個人」といっても、それにはお金がかかるのだ。そう言ってしまえば身も蓋もない話なのだが、仕方がない。その条件があって初めて、個人主義の思想は全うできる。もう一つの条件は、思想というものに対する理解力だ。いくらお金があっても、頭は前時代的で父権的な家族主義を無批判に受け入れている人間はごまんといる。いや、それはお金がなくても同じだ。漱石も、講演時にはすでに流行小説家であり、それ以前は、少し地方の中学を回ったが、最後は東京帝大の教員として国費でイギリス留学したのである。そこで到達したのが「自己本位」という思想的立場だった。だから、個人主義はブルジョア思想の一つに過ぎないというマルクス主義の指摘は正しいし、「洋館に住む新たな人」と和辻が戦前に批判したとおり、個人主義者は本質的に非政治的である。個人主義の立場からすれば、「政権=悪の下で庶民が苦しむ」などという勧善懲悪的に理解されたもはや「思想」とも言えない社会批判はちゃんちゃらおかしいのだし、「絆」などという、公共放送が連呼するまやかしは最初から信用していない。結局、この社会で人間が「個人」として自立できる唯一の手段はお金なのだし、それが多少あったとしても「個人」としてできることなどたかが知れているのだ。ひところ「老後2000万円問題」というのがあり、自分の感覚ではそれくらい持っていて当然だろうと思っていたら、意外にそうでもなく、高齢者の資産の平均値は2000万を越えるが、中央値は500万と知って驚いた。そうなると、個人主義も何もあったものじゃない。自分たちもたいして資産があるわけではないが、夫婦ともに「個人主義者」でいられるくらいの収入と資産があるのはありがたいことだと、最近は思っている。