『「おもてなし」という残酷社会』(榎本博明)その2
「感情労働」という妙な言葉は、相手の気持ちを慮り、自己をできる限り抑制する職業的振る舞いを、日常的に強いられる職業をいうらしいのだが、筆者はこれを日本人の「間柄の文化」のためという。それは、まず、自分の都合ばかりを押し通し、ここで自分がどう振る舞えば、相手がどう感じるだろうなどということにお構いなしの「自己中心の文化」とは相容れないそうなのだが、ここまで単純な文化二元論を読むのも久しぶりだ。このレベルは1960年代だろう。物事はそう単純に割り切れないのであって、どちらにしても程度問題なのだ。十分我を通す看護師もいるし、相手を思いやりすぎるアメリカ人の教師もいる。筆者は文化の姿をあまりにもデフォルメしすぎるという誤謬に陥っている。筆者が力説すればするほど、文章に説得力がなくなっていくのだ。自分は近代個人主義者であり、生徒を相手にしており、その場面では十分信頼されているが、生徒のために一定以上の犠牲的労働をしようとは思わない。そのことは、高3くらいになると生徒もよく了解していて、自分の空き時間を調べて、進路や小論文の指導を、かなり遠慮がちにお願いに来る。ただ、自分が心がけているのは、公平性という視点で、どんな生徒でも単なる好悪だけで断ったりしない。まあ、小論文の場合は、どうしても良いものを書くのは能力的にきついという素質はあり、その場合、オマエはちょっと小論文で受かろうと思っても無理だと思うよ、と言うことにしているが、それは一回は指導してからの話だ。生徒の気持ちに「寄り添って」ダメとも言わず、ダラダラ指導するのはお互いに不幸だと思うからだ。つまり、自分ができることを予め相手にも自分にも明確に、ある限界線のようなものを引いておくことが、自分の場合の職業的態度である。金八先生みたいに生徒のためにいつも全力で生きる、といえば格好良いかもしれないが、その実、生徒に依存しないと生きていけないような情けない人間だけにはなりたくない。そして周りにもそういう「熱心」な教師はいるもので、そういうのは生徒にも同僚にも、いい迷惑な存在だ。話は逸れたが、この本から得るものは少なかった。そういう本についてここで書くのもまれなのだが、最近は10冊のうち7,8冊はそういう類いである。この項終わり。