ポピーとハボタンとスミレと
予想通りにトサミズキが寂しげに見えてきたので、華やかなものに交換します。そぼ降る雨の中、歩道の傍に咲いていたポピー(poppy)に寄れるところまで寄ってみました。 和名はケシ。漢字では罌粟と、筆記はおろか難読の名前です。またの名は虞美人草。一般的に栽培されているのはオニゲシやヒナゲシです。一般的でないものといえば阿片の原料となる種類で、黄金の三角地帯にはきっと桁違いに広大なケシ畑があるんでしょうね。阿片用ケシの花もなかなかに麗しいそうで、東京都薬用植物園で観賞できるそうです。稀に誤ってそこらの軒先にもあるとか。 ケシ畑と聞いて私が思い出すのは、横山光輝の漫画『伊賀の影丸』の一話です。ある藩が密かに山奥で栽培していたという話なんですが、登山者入山禁止にしてケシを栽培している山が、この今もどこかにあるんじゃないかと怪しんでいます。(^^; 花芯の大写しで全体像がわからないので、図鑑的ショットも一枚。 蕾はごろんと大きく毛むくじゃらで結構グロテスク、なのに花はパラフィン紙のように透明感がありうっすらとなよやか。むらのない純色の花びらは、何かの人工的な素材を思わせペーパーフラワーの類に見えます。このコントラストのうちに、人間をたぶらかす阿片の原料にたる妖花の趣致が籠められていそうです。 盆梅の枝振りが、枯れ木としか見えないような老醜の古木であればあるほど、薄紅色に咲く梅花が何かしらの希望の成就に見えてくる、その抱き合わせにも似た自然だけで作り上げた不自然が、ケシの花畑にも垣間見られる気がします。 虞美人とは、覇王別姫で知られている項羽の寵姫。四面楚歌となり虞美人が殉死した場所に生えてきたヒナゲシが、その生まれ変わりだとされました。鮮やかな赤は血の色の花と見られ、これは西洋でも同様の扱いだそうです。 そうと知ると、浮き出た花脈が血管のようでもあり、春の世に向けてなにをか訴えているように見えてきました。 さて、次は葉牡丹です。 幾重にも取り巻いた紅白がおめでたいと、正月の飾りに重宝されています。 見ているとフラクタル図形のようです。フラクタルとは、コンピュータグラフィックスの一種ですが、筆を執るのも人間ではなくコンピュータなのです。はじまりは一つの三角形などいたってシンプルな形。その形状に一定の計算を施して歪みを加える。そうして分断した「形」の一つひとつに同じ計算を果てしなく繰り返していき……、という手法で描かれた絵がフラクタル図形です。大抵は、無機質なコンピュータが描いたとは思えない緻密で繊細な、ちょうど水面に一滴落ちた油膜が見せる自然界の偶然の片鱗の輝きにも似た模様になります。 仏教で、言葉にできない真理を表現した図柄を曼荼羅といいますが、フラクタル図形の魅力は、複雑に見えるものが実はたった一つの単純な数式を繰り返し実行した結果でしかないという、真理の作用とでもいうべきものがそこに見て取れるところにあると思います。さしずめクールな曼荼羅と言ったあたりでしょうか。 マクロ集の最後はスミレ(Violet)です。 こうして大写しすると魔界の蝶が羽根を休めているようですが、シェークスピアは青春の儚さにたとえました。 A violet in the youth of primy nature, Forward, not permanent, sweet, not lasting. The perfume and suppliance of a minute. 青春の花はスミレ けれど、凋落を免れない若さ、永えに尽きぬ甘美などありはしない 芳香も愛しみも、一時のものでしかないのだ ─『ハムレット』より─ 一口にスミレと言っても多種ありますし、ましてや写真で一部だけを切り取ってしまうと心象の重なる領域は僅かなものかも知れません。 万葉集にもすみれが詠まれていますが、同じスミレでも野に咲く菫、タチツボスミレのようなか弱いスミレです。 春の野に菫摘みにと来し吾ぞ野を懐かしみ一夜宿にける (山部赤人) これだけを比べたら、なにかにつけ苦悩を漏らしたがる西洋とは対照的。自然に溶け込んでいくようでいいですね。~ やまとのこころ かくあらまほし (^^ この写真ではちょっと青が勝っていますが、すみれ色はもう少し紫寄りの青紫で、その深みのある紫紺は西洋では王族の色(royal purple)とされています。さらには謎を秘めた瞳の色になぞらえる例も多く、ギリシア神話ではゼウスが愛した巫女イオの瞳の美しさを偲んでスミレを作ったとされています。上の写真は瞳のイメージにまだ一番近いかも。 あなたの澄んだ菫の目 ああ朝な夕ないくたびぞ いずこともなく現れて 解くに解かれぬ青い謎 (ハイネ『家路』 万足卓訳)