イギリスの探検記:ジョン・ハント「エヴェレストをめざして」(前編)
今回は、54年前の5月29日に世界最高峰エヴェレストの初登頂に成功したイギリスの登山隊のお話をとりあげました。 底本はイギリス登山隊を指揮したジョン・ハント自身の手記になる「エヴェレスト登頂」(朝日新聞社 1954年発行)と「エヴェレストをめざして」(岩波少年文庫 1989 松方三郎訳)の2冊です。「エヴェレストをめざして」は、「エヴェレスト登頂」の資料的で記録的で専門的な箇所を最小限にし、少年向けの探検記として編集されたものです。 以下のあらすじ版は、既に圧縮済みでもある「エヴェレストをめざして」を土台にし、一部「エヴェレスト登頂」の本からの情報を取り込んでいます。 原書はジョン・ハントの一人称語りかけで、子細にわたって心情が語られてあり、そこが一番印象深い箇所なのですが、この圧縮版では登頂の先陣を切る場面を追いかけるのみになってしまいました。 隊員の顔が見えず臨場感の薄れた中にも幾分かのドラマと何かを感じ取れるものが僅かでも残っていればと願います。 /\/\/\/\/\/\/\/\/\♀♀/\/\/\/\/\/\/\/\/\ ―― エヴェレストに登ったということは、 ただ一つのアドベンチャであったというだけでなく それ以上の何かであったと信じている 1954 ジョン・ハント ―― 1849年、インド測量局がネパール・チベットの山々を測量して、8848mという未聞の高さの山があることを知った。現地でこの山を「チョモランマ(大地の母)」と呼んでいたが、当時ネパール・チベットの両国は外国人の入国を禁じており、チョモランマの存在は世に知られていなかった。東西2500kmに及ぶヒマラヤ山脈中「ピーク15」と呼ばれたこの峰は、後に測量隊長の名を取り「エヴェレスト」と名付けられた。世界最高峰の出郷である。 1912年、北面を領するチベット国の許可を得てイギリス登山隊が登頂に挑んだ。しかし、ヒマラヤ山脈一帯は汽車はもとより道もない交通隔絶の地で、日射と猛風に連日晒され続けて高原を越し、疲弊の果てに着いた麓からがまた想像を絶する危険と困難のはだかる難路で、隊は目的は遂げられなかった。その後の幾たびか企てられた遠征も頂上まであと300mが届かず第二次大戦となった。 大戦後に南面を領するネパールが鎖国を解き、麓までの辛さは緩和された。1951年に乗り込んだ踏査隊が南面にルートの可能性のあることを報告し、翌年スイスがモンスーンのおさまる春と秋に南面登頂を二度試みたが、やはり最後の300mの壁は越せなかった。 1953年の遠征に向けイギリスは準備を進めた。アルプス、ヒマラヤでの登山経験を持つ陸軍大佐ジョン・ハントが隊長の任についた。 40年間の敗退の情報は集められ、高度・天候・地形の問題と整理して対処策が練られた。8,000m超で襲われる極端な運動能力と思考力の低下という生理的問題は、酸素供給装置の性能向上が課題となった。酸素供給装置は戦前から使用されていたが、装置の重量が効果を相殺していた。より軽く長く使用できるように試験と改良が重ねられた。 天候は一番の障壁であった。高所における悪天候のハンディは所要時間や疲労を桁違いのものにした。モンスーン期を避けても好天に恵まれる保障はなかった。悪天時に待機という選択がとれるように、物資補給力が入念に企図された。 そして隊長ジョン・ハントが最重要事としたのは隊員の選定である。登攀技術と同等に隊員たちの調和を重んじた。悪条件下で生活を共にし難事を成遂げるには、個よりもチームを第一とする姿勢が求められた。 ジョン・ハント(42歳) 隊長。イギリス陸軍大佐。軍隊の雪山技術指導に従事。 チャ-ルズ・エヴァンズ(33歳) 副隊長。外科医でヒマラヤでの登山経験豊富。 エドモンド・ヒラリー(33歳) ニュージーランドの養蜂家。気骨体技とも屈強の登山家。 テンジン・ノルゲイ(39歳) 地元シェルパの頭。前年のスイス隊に参加し8,500mに立つ。 トム・ボーディロン(38歳) 物理学者。酸素管理を担当。岩登りの名人でもある。 アルフレッド・グレゴリー(39歳) 旅行案内会社の重役。登山経験豊富。 ジョージ・ロウ(28歳) ニュージーランド出身でヒラリーの友人。教師。 ウィルフリッド・ノイス(34歳) 教師で登山家。登山用具の責任者を務める。 マイクル・ウェストマコット(27歳) 新進の登山家。テント・梯子の管理を担当する。 チャールズ・ワイリー(32歳) グルカ旅団将校で登山経験も豊富。輸送責任者を務める。 マイクル・ウォード(28歳) 医師。隊の保健管理を務めるが登山経験も豊富。 ジョージ・バンド(23歳) ケンブリッジ大山岳会会長。無線関係を担当。 グリフィス・ピュウ(43歳) 生物学者。山岳生理学の専門家でスキーの達人。 トム・ストバート(35歳) カメラマン。登山経験も豊富。フィルム撮影を担当。 食料に燃料、テント、梯子、無線機、酸素、過不足のないよう見積った荷は473個、重量にして7.5トンに達した。1953年3月、隊員は海路と空路よりカトマンズに集い、現地で人夫350人を雇いネパールの高原を16日間かけて横切りエヴェレストに近い根拠地ティアンボチェに入った。人夫の賃金は銀や銅でないと通用しないため、この賃金を運ぶだけで実に12人の人夫が要った。 高度順化と訓練を兼ねてティアンボチェで3週間を過ごした。この間にエヴェレストの谷向かいに聳えるヌプツェや付近の6,000m級の山に登り、隊員同士互いの力をよく知りあった。エヴェレストの最後の300m、侵入者を永久に氷のうちに人質として捕えようとするエヴェレストの妖気を霧散させんと、周到綿密を期すジョン・ハント隊であった。 <中編へつづく> /\/\/\/\/\/\/\/\/\♀♀/\/\/\/\/\/\/\/\/\