言葉はもとより曖昧なものかも
ある本を読んで、これはとても実践的な本だと思った。 ところで、「実践的」という言葉。 よく使われているし、また自身で使いもする。 読むときも書くときも、わかったつもりで接していた。いま改めて『実践的とはどういうことか』と自問してみても、なにも説明できなかった。 生半可な理解しかできていない言葉を使うなとは教科書の説くところである。これではいけない。 理解できていない言葉に接したら、辞書に当たるのが基本である。だが、いつも傍らに辞書があるわけではない。白状すれば、あっても引かない。前後の文脈から意味を推測して納得してしまう。そうして、統計的に掴んだおぼろげな意味で、いつしか理解したつもりになっている。 言葉とは幾分そうして習得していくものではあるけれど、ときどき繕いものをするように、お座なりですませていた言葉を検めたい。 広辞苑(第五版)より~【実践】一. 実際に履行すること。一般に人間が何かを行動によって実行すること。「考えを ─ に移す」二. [哲](ア)人間の倫理的行動。アリストテレスに始まる用法で、カントなどもこの意味で用いる。(イ)人間が行動を通じて環境を意識的に変化させること。この意味での実践の基本形態は物質的生活活動であり、さらに差別に対する闘争や福祉活動のような社会的実践のほか、精神的価値の実現活動のような個人的実践も含まれる。認識(理論)は実践の必要から生れ、また認識の真理性はそれを実践に適用して検証される、という立場で実践の意義を明らかにしたのはマルクスとプラグマティズムである。 以上、実践の説明に「的」がつくと「実践に基づくさま。実際に行動するさま。」となる。 辞書にあたってよく理解できたか。 書くまでもないと思う。 「二」の説明は、深刻である。「倫理的行動」「アリストテレス」「カント」「物質的生活活動」「個人的実践」「認識の真理性」「マルクス」「プラグマティズム」。理解しなければならない言葉を、たくさん押しつけられた。お座なりにすべからず、そう思い立った矢先のこと。 凡ての道はローマに通ず。凡ての言葉は宇宙に通ず。 しかし、実践の形態から帰納して意義を説こうとするのは、辞書の姿であろうか。プログラミング的な視点でみれば、これは自己参照という高度な関係性の付与である。辞書で許されるのか。 右の反対は左。左の反対は右。こういう循環参照すらも本来好ましくない気がする。 何をかを考えているように見えてもコンピュータは、究極的には電気があるかないかしか判断できない。単純の積み重ねでしか複雑を構築できないプログラミング言語と違い、自然言語は分解不能のブラックボックスのいきなりの生成が許されるのである。そう考えると、曖昧にしか理解していない言葉は、案外それでいいのかもと思い直してみたくなった。 言葉はもとより曖昧なものかもしれない。