燕岳(中房温泉~合戦小屋経由でピストン) その3
JR大糸線有明駅の南から西に延びている道が、中房川に沿って山深い所へと入っていく。この道は、槍ヶ岳矢村線と呼ばれて、山地図には「道幅狭くすれ違い注意」と書かれてある。走ってみると、なるほど一言いいたくなる、いや~な感じの道で、神経のすり減る道だった。 「可能性があれば、いつか必ずそうなる」 というのが、私のリスク対処の考え方だから、この道を走ると、その回数・距離に応じて、いつか必ず、お互いにブレーキが間に合わず、対向車と鼻先をぶつけあう程度の接触事故を起こすことになるのだ。 この道は、その可能性が高い道で、そしてそれは、いくら注意しても、避けがたくあるのである。走っていて、今にもなるぞ、なるぞと脅かされ続けている感じだった。 燕岳はまた行きたい山だが、この道を通らないといけないのかと思うと、行く気が少し削がれてしまう。 しかし、この道は標高を稼いでくれて、おかげで登山道では楽できる。登山口から、燕岳のピークハントピストンの標準コースタイムは7時間55分。鹿島槍と比べると半分近い。 表銀座縦走コースの出合いまで、標準コースタイム4時間10分。急登といわれている登山道であるが、アルプスの主稜線までこんな短時間で登れるなら、休憩をじゅうぶんに取ってもおつりが来る。 最寄駅となるJR大糸線有明駅の標高は540m。登山口となる中房温泉の標高は1,394m。950mは車で登山。燕岳の標高は2,762mだから、登山口は、数字の上でほぼ五合目。あと1,370m登れば山頂だ。 鹿島槍の麓より雨脚は幾分弱くなっていて、発つに躊躇いなかった。 6時過ぎから、合戦尾根を登った。 合戦尾根は、ほどよい頃合いで、ベンチの置かれた小休止ポイントがあらわれる。麓から、第一ベンチ、第二ベンチ、第三ベンチ、富士見ベンチ、その上が、合戦小屋という宿泊施設をもたない販売のみの山小屋、主稜線に出て、燕山荘。燕岳はツバクロダケと読み、燕山荘はエンザンソウと読む。 山の固有名詞は、ときどき読みが難しい。 途中で前後した方は、燕岳と大天井岳の両ピークを目指すプランだった。大天井岳は、オテンショダケと知らないと読めない読み方をする山である。お話していると、つい今しがたまで、ダイテンジョウと思っていたそうだ。 逆に私も、北岳に登ったとき、人との会話で、農鳥岳(ノウトリダケ)をノウチョウダケと思っていたことに気付いたくちだ。 私は、白峰三山縦走ではなく北岳のピークハント。農鳥岳まで行かない。今回の人は、大天井岳へ行くのに、読めなかった。そこは違う。 ……こういうのを五十歩百歩という。 スイカが名物の、合戦小屋に到着。 合戦尾根というから、ここで戦があったのか。重い甲冑をつけて、こんな急登を登り降りしたのだろうか。登りながら、合戦の名に想像をめぐらせていた。 後日調べて、史実に基づくものではなく伝承の合戦であったと知った。 坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ)は、実在した平安時代の武将である。征夷大将軍につき、20数年来朝廷を悩ました北東方面の逆賊を制圧した。文が菅原道真なら、武は坂上田村麻呂、と後世語り継がれるほどの誉れ高き武将である。 合戦で、山麓から攻めあげた一方は、この坂上田村麻呂。この人が攻める限り、国内に敵なし、という豪傑で名将。して、その相手は、といえば、八面大王。 八面大王は、鬼である。 山に住み着いた鬼が、地元の子供をさらい、作物を奪略する。村人は田村麻呂に退治してくれるように懇願した。田村麻呂は、もとより治安に務めるのが仕事。引き受けたものの、鬼は手ごわかった。小鬼を引き連れ、岩山でゲリラ戦術を取られると、田村麻呂軍の兵力はみるみる消耗していった。あまたの矢を射かけるも、相手の陣営は、峰に高く構えて届かない。 戦が思いのほか長引いて、旗色悪しとみた田村麻呂、観音様に助けを請うた。 夢枕に立つ観音様の助言は、村一番の鍛冶屋に特別誂えの剣を作らせよ、そしてそれで討て、というものだった。 三日三晩、鍛冶屋が根を詰めて、必殺剣を作り上げた。試しに巨岩に振りおろせば、断たれた岩は彼方へ飛び去り消えるという凄まじさであった。 村の衆の斉唱する観音経を後ろ盾に、田村麻呂は沢筋から闇夜に乗じて一気に攻めあげた。奇襲が功を奏して、小鬼を蹴散らし、ついに最奥部に陣取る八面大王を射程に捕らえた。機を逃さす、田村麻呂は、必殺剣を八面大王へ投げつけた。 「ぎゃぁー」 (『あづみ野 大町の民話』より) 合戦とは、この坂上田村麻呂と八面大王の戦いなのであった。なお、その戦いぶりを伝えるお話には、いろんなバリエーションがある。 <つづく>