日本を変えた千の技術博(2/2)コンピューター
2019年3月2日、上野にある国立科学博物館で「日本を変えた千の技術博」を見ました。コンピューターの歴史についても面白かったので、紹介します。高校時代は、親に買ってもらったNECのパソコンで簡単なプログラムを組んで遊びました。シンプルなゲームを作ったり、雑誌を見ながら音楽データを入力して、歌謡曲のメロディが流れるのを喜んだりしました。友人の家に行ってはパソコンの話をするのが楽しい時期でした。↑ コンピューター。「あれば便利から、ないと困るへ」。↑ 始まりは計算する機械。明治時代中頃になると、国内でも機械式計算機の特許が認められている。1903(明治36)年には、矢頭良一(やずりょういち)が独自のアイデアによる計算機械「自動算盤」を発明。1950年代後半はリレーを使った計算機や真空管式の計算機が登場した。1964(昭和39)年に早川電機工業(現・シャープ)が発表したオールトランジスタ式電子卓上計算機は業界に大きな衝撃を与えた。↑ 虎印からタイガーへ。大本鉄工所の大本寅次郎(おおもととらじろう)は手回し計算器を国産化し、1924(大正13)年に虎印計算器として発売したが売れなかった。名前をタイガー計算器に変えたところ好評を博し、1960年代後半に電子式の卓上計算機が登場するまで、銀行や科学計算など社会のさまざまな場面で用いられた。↑ タイガー計算器 十號(じゅうごう)型/タイガー計算器製/大正時代。ハンドルを回すことにより四則演算を行う機械。10桁までの計算結果を表示できる。↑ ヘンミ計算尺/ヘンミ計算尺製。計算尺を使えば、複雑な計算を簡単に行える。海外では産業革命の時代から1970年代まで使われていた。日本では、明治時代に逸見治郎(へんみじろう)が国産化し、1940(昭和15)年頃から普及し始めた。1960年代には、国産計算尺の世界におけるシェアは70%を超えていた。ビルも鉄道も家電製品も、すべて計算尺を使って設計されたのである。↑ ヘンミ計算尺。↑ そろばんに負けたから計算機をつくりたいと思った。カシオ計算機の創業者の一人、樫尾俊夫(かしおとしお)は、計算機を開発するようになった経緯について「ある時、電動計算機とそろばんによる計算速度の対決で、そろばんが勝った。しかし、そろばんによる計算速度はこれ以上速くならないだろうと思った。ところが計算機は技術によって、まだまだ発展させることができる。それならそれをやってみようと思った」と語っている。↑ 電子式卓上計算機 コンペットCS-10A/早川電機工業(現:シャープ)製/1964(昭和39)年。オールトランジスタ・ダイオードによる電子式卓上計算機として、世界でも最初期に発売され、その後の小型化や普及に道を拓いた。ゲルマニウム・トランジスタ530個とダイオード2,300個を含む約4,000点の部品からなり、重量は25キログラムもある。定価は53万5千円で、当時の大衆的な自動車とだいたい同じ値段であった。↑ 電子計算機 COBAX ICC-500/ソニー製/1967(昭和42)年。トランジスタ電卓元年の1964(昭和39)年に発売された試作計算機の実用機で、軽量小型で使い勝手の良さにソニーならではの工夫が光る。↑ カシオミニ/カシオ計算機製/1972(昭和47)年。ついにパーソナルユースの卓上登場!。幅146X奥行77X高さ42mm、重量315g(本体215ℊ、電池100ℊ)、消費電力は0.85W、手のひらサイズの小型電子卓上計算機である。開発当初より個人での利用を考え、機能を絞り低価格(発売当初の価格は12,800円)を実現した事により、電卓が広く普及するきっかけとなった。↑ 情報化社会を支える半導体製造技術。現代のLSI(大規模集積回路)は約1センチメートルの角の中に数億個のトランジスタが集積している。その技術の要となる機器が光学技術を応用した縮小投影型露光装置だ。↑ 半導体CMOS型1Mbit DRAM/東芝製/1965(昭和40)年。 ↑ 半導体CMOS型1Mbit DRAMのチップ拡大写真/東芝製/1965(昭和40)年。↑ 情報を処理する機械から未来を予想する機械へ。1950年代後半になって、UNIVAC(ユニバック)120などが官公庁や証券取引所などに導入され始めた。国内での開発が盛んになったのもこのころで、初めて完成したのがFUJIC(フジック)である。コンピューターに使用される素子は、リレーや真空管から半導体へと発展し、今では一つのチップに数千万個のトランジスタが搭載されるようになり、地球環境の変動予測などが計算できるようになった。↑ 真空管式計算穿孔(せんこう)機 UNIVAC(ユニバック)120。1955(昭和30)年に輸入されたPCS(パンチカードシステム)用電子式計算穿孔機。本機は612本の真空管が使用されており、プログラムはプログラムボードにより入力した。↑ この配線を見よ! HITAC5020/日立製作所製/1964(昭和39)年。努力と根性でつくった我が国初の大型コンピューター。配線ミスひとつ許されない。加減算を1秒間に約5万回できる処理能力をもち、外国機とそん色ない性能であるが、もちろん現代のパソコンとは比較にならない。↑ HITAC5020(トランジスタ式デジタル型コンピュータ)/日立製作所製/1964(昭和39)年。東京大学で真空管式計算機TACの開発にかかわった村田健郎と中澤喜三郎らが日立製作所に入社し開発を先導した。1964(昭和39)年に日立中央研究所で完成された大型コンピューターで、1967(昭和42)年まで使用された。日本で最初の優れた第一級大型機。↑ HITAC5020の内部。配線だらけ。↑ 地球シミュレーター(初代)の計算プロセッサー(AP)/ 海洋研究開発機構製/2002(平成14年)。プロセッサ:5120台/ノード:640台/総合最大ベクトル演算性能:40TFLOPS/総合最大主記憶容量:10TB。世界のスーパーコンピューターのトップ500で2002~2004年の間計算速度第1位。地球温暖化予想や地球内部ダイナミクスなどの研究に貢献。↑ 地球シミュレーター(初代)。↑ 地球シミュレーター(初代)稼働風景。↑ 最初は理科系オタクのおもちゃだった。大型計算機が実用化されても、個人で使うことは夢であった。小型電卓に必要なLSI(大規模集積回路)の開発のため、日本のビジコン社から派遣された嶋正利(しままさとし)と、インテル社が共同で生み出したのがインテル系プロセッサの元祖intel4004である。1970年代の中頃にはプロセッサを組み込んだワンボードとよばれるコンピューターキットなどが発売され、個人でも手が届くようになった。特に何かに役立つわけではなかったが、多くの若者がプログラミングの魅力に取り憑かれ、後に情報化技術を担う人材となった。↑ ベーシックマスターMB6880/日立製作所製/1978(昭和53)年。日本初の8ビットパソコンと言われている。CPUは68系のHD46800で、マシン語の他にBASICでプログラムングもできた。↑ 8080A システム・デザイン・キット/インテル社製/1976(昭和51)年。↑ パーソナルコンピュータ PC-9800シリーズ/NEC製解析、シミュレーションなどに対応可能な高速演算機能や日本語処理機能を備えていたため、研究機関や企業の設計製造部門などで幅広く使用され、日本を代表するパーソナルコンピューターとなった。↑ パーソナルコンピュータ PC-8001/NEC製/1979(昭和54)年発売。国産初期の代表的な8ビット・パーソナルコンピューター。カラー表示、カナ文字が扱え、価格も手頃だったことなどから、個人に加え、ビジネスでも広く利用された。↑ トレーニングキット TK-80/NEC製/1976(昭和51)年。↑ 日本語入力。26文字程度のアルファベットで構成されている欧米の言語と異なり、日本語の常用漢字だけでも2千以上の漢字を表記できなくてはならない。欧米では早くからタイプライターが普及したが、漢字仮名交じり文を機械で素早く表記することは、想像以上に困難なことであった。↑ 謄写版/1894(明治27)年発明/展示品は大正~昭和初期)原型はアメリカのトーマス・エジソンが考案したミメオグラフである。1894(明治27)年に堀井新次郎親子が国産化して以来、1970年代まで、手軽な印刷として学校や会社などで使われた。↑ 機械式翻訳機「やまと」論理回路/松下通信工業・電気試験所製/1959(昭和34)年。電気試験所が中心となって開発した黎明期の機械翻訳専用機である。↑ 日本語ワードプロセッサ JW-10/東芝製/1978(昭和53)年発表、1979年発売。初の日本語ワードプロセッサー。文章の読みを文節ごとに区切って入力する文節指定入力と、漢字部分を指定して入力する漢字指定入力を併用することで、効果的な日本語入力を可能にした。かな漢字変換技術で開発された言語処理技術は世界中の象形文字の入力技術に大きな影響を与えたと言われている。10メガバイトの時期ディスクと24ドットのシリアルプリンタを搭載し、価格は630万円であった。↑ 技術の発達は想像を超えて。↑ コンピューターを身につけた日。セイコーUC-2000(腕コン)/セイコー/1984(昭和59)年。世界初のコンピューター付ウォッチ。2,000字のメモ機能をはじめ、電卓機能、スケジュールの記憶機能などを搭載。↑ ロボットが眼をもった日。↑ 人工知能ロボット ETLロボットMK1/産業技術総合研究所/1970(昭和45)年。電子技術総合研究所(現・産業技術総合研究所)・萱場(かやば)工業製。生物が眼をもったことで進化に大変化が起きた。ロボットも眼をもつことで、大きく進歩しようとしており、その先駆けである。初の視覚付きマニピュレーター・システム。↑ ロボットが友達になった日。AIBO ERS-110 /ソニー製/1999(平成11)年。家庭用として初めて事業化、販売されたエンタテイメントロボット。「機械で遊ぶ」から「機械と遊ぶ」へ。AIBO(アイボ)は人とロボットの関係が変えられることを示した。↑ 右:エンタテインメントロボット AIBO ERS-110 /ソニー製/1999(平成11)年。人とロボットの関係を変えたアイボ1号機。↑ 左:エンタテインメントロボット AIBO ERS-210 /ソニー製/2000(平成12)年。「機械が(ひとりで)遊ぶ」日はくるのだろうか?