河合奈保子さん・決勝大会の審査
河合奈保子さんですが、1979年12月にHIDEKIの弟・妹コンテストに応募されました。書類審査に通り、1980年2月10日の大阪地区予選で、小林千絵さんとともに合格します。そして1980年3月16日、東京・中野サンプラザの決勝大会で河合奈保子さんは石野真子さんの「春ラ!ラ!ラ!」を歌い、優勝しました。河合奈保子さんが優勝となった選考過程に関し、審査員だった大本恭敬さんが「理想の声に近づく本 大本式ヴォイス・トレーニング 1,000人の歌手・タレントを育てたヴォイス・トレーナー/大本恭敬/シンコーミュージックエンターテイメント」に詳細を書かれているので、一部を紹介します。(P190)さて、私のもとで、プロの歌手たちがどのようなレッスンをしているのか・・・。沢山のカルテの中から、特に印象深かった河合奈保子クンをモデルに、説明することにしましょう。彼女は、私も審査員の一人をつとめた全国新人スカウトキャラバンで、約26,000名の応募者の中から選び出されたタレントです。実は、(大阪)地区予選の最終審査に奈保子は残らなかったのですが、私が強引に推薦しました。いままでのタレントは、個性があるというか、クセがある、いわばネクラが多かったのです。また、そういう子でないとスターになれないという、業界の常識がありました。新人スカウトキャラバンに応募してきたのも、タレントっぽい、出来上がった雰囲気の子ばかりでした。その中で奈保子は非常に目立った。彼女は普通のお嬢さんです。透明感がある。アクがない。その普通の感じが、とても新鮮に映りました。そして、決勝大会。最終的に誰に決めるか、議論白熱、なかなか決まりません。最後に私のところにお鉢がまわってきたので、「6番(ママ:本当は9番)の河合奈保子という子が一番いいと思う。一番うまいとは言えないが、性格がとても素直だし、歌いながら自分でカウント・テンポ、間をとって歌っている。みんなあがったりして条件は同じだけど、その点や聡明さ、清潔感、しぐさ、すべてに好感がもてる。タレントっぽくない、普通の家庭のとてもいいお嬢さんという感じ。こういう子が一人くらい芸能界にいてもいいのではないか」と述べたら、全員異議なし、ということで彼女の優勝が決定したわけです。(P191)その後、彼女は大阪に帰り、学校の授業が一段落してから上京して、私のところでレッスンを受けることになりました。デビュー曲の吹き込みまで20日間しかないので、毎日平均2時間のレッスンです。その最初の日、彼女の第一声を聞いて、私はアレ! こんな声だったかな。こんな子だったかな、と思いました。いろいろな歌を歌わせてみると、リズム感が良くない。声が少し、ノドから鼻にかかる。高い声が出ない。歌が重い。正直なところ、マイッタな、なんでこんな子を選んでしまったのか、と感じました。しかし、今さらしょうがない。よし、やろう、と猛特訓を始めました。(P192)レッスンの模様はすべてテープに録って、持って帰らせます。家で聴いて、悪いところ、良いところを確認させるのです。また、新しいレッスン曲は、本人の歌うキーと、それより高いキー、低いキーの3通りをピアノで弾いたものをテープに入れます。しかも、間にメロディーを入れないで、リズムだけで弾いたりします。これは耳の勉強になります。どのキーが一番自分に歌いやすいかも確認できる。楽してるなと思ったら一つ上のキーで歌わせたりもします。リズムだけで弾いてあるところでは、リズムの悪い子はメロメロになります。このテープを聴くのが宿題です。奈保子の場合は毎日だったので、きつかったと思います。一回聴くだけで2時間かかりますから。「大阪弁が出てるゾー」「アクセントが違う」「ノドにひっかかっているから、アゴを引きなさい」「目を正面に向けて」「下腹に力を入れて」「鼻声だゾー」「ダメ! 裏声になってる」などなど、私の叱咤の声が入っているわけです。(P193)奈保子は、私が予想した以上に頑張り屋さんでした。猛特訓にネを上げず、私が怒鳴っても文句も言わず、嫌な顔もせず、一生懸命です。2回ほどベソをかきましたが、「歌手としてデビューできるのかしら。もう大阪に帰れって言われるんじゃないか」と心配したそうです。それは、自分が思っていたより、声が出なかった。ノドに詰まって高い声が出ない。裏声で歌うとダメダメ!と言われる。リズム感、リズムって言われるけど、自分はピアノも弾いていたし、マンドリンも弾いたりしていたから、そんなに悪いと思ってなかった。リズム感ってそんなにむずかしいものなのか、と考え込んでしまったこともあったようです。上京したときの彼女の声音域は、BからBまで、そこから高い音は裏声、ファルセットになり、それもDまでしか出なかった。20日間の特訓後は、下はAから上はDまで、そこから3つくらい上まで出せるようになり、鼻にかかっていた声がうまく抜けて、澄んだ声になり、低い音も太く、甘くなってきました。リズムは8ビートまでとれるようになりました。デビュー曲は、「大きな森の小さなお家」ですが、作詞家の三浦徳子さんが詞を持ってきたとき、ア列の言葉を最初に持ってくるようにアドバイスしました。奈保子は明るい元気な子なので、口を大きく開けるア列から始めたほうがいいと思ったからです。で、何行目かにあった ♬誰もみなこと ない♬ が先頭に来たのです。その後のヒットは、ご存知の通りで、その年の10月に初めてリサイタルが開かれることになり、私が音楽監督と指揮を担当することになりました。彼女がド近眼なこともあり、舞台上で何かアクシデントでも起こったら大変。そばで見守り、助けてほしいと彼女自身に望まれたためです。もちろんコンサート用のレッスンもしました。(P194~195)コンサートでは、外国曲やいろいろな曲をメドレーにしたり、ソロでやったりするので、動きも合わせて、身体のバランスの取り方や、ステージングの流れなどをチェックします。このアクセントのときは、ここを注意しなさい。横を向いて声を出すときは、声は半円を描くので、距離が遠ければ遠いほど分散して、聴きづらくなる。声に重りをつけて投げつけるつもりで歌え、2階の方に向いて声を投げかけるときは、アゴを引いて、目をキッと上に向けなさい。後ろのバンドと音の喧嘩するな。つまりバックの音が大きいと、それに負けまいとしてつい大きな声をだしてしまうけれど、大きな声をだすとかえってマイクのヴォリュームを下げられ、ノドが疲れるだけになってしまうよ・・・などと、アドバイスしていきます。奈保子の場合、リズム感が悪く、振り付けもなかなかのみ込めない。歌もたくさん覚えなくてはいけない。発音練習もしなくてはいけない。怒られ怒られしているうちにいよいよ幕の開く日がやって来てしまいました。さて、どうなることかと回りはヤキモキしたわけです。さあ、幕が開きました。すごい人気です。テープがどんどん飛んできて、テープの山があちこちにできました。彼女はド近眼なのに、テープは一つも当たらない。テープでうずまっているような舞台の上で、彼女は手をたたいでスキップしながら歌い始め、テープの山もランランと軽やかに飛び越していく。振付の先生も、練習のとき、何度教えてもうまくできなかった2ステップのスキップを本番で見事にやってのけたので、驚嘆していました。私も同じです。アゴを引いて、下っ腹に思いっきり力を入れ、声をふわっと投げる、といった練習時の注意事項を完全に守り通したのでした。地味な、普通のお嬢さんが芸能界に入って、やっていけるのかな、と思っていたのに、その勘の良さ、運の強さを見て、関係者一同で大いに驚き、また喜びました。ーーーーーーーーーーー1980年3月16日、東京・中野サンプラザの決勝大会で河合奈保子さんは石野真子さんの「春ラ!ラ!ラ!」を歌い、優勝した。↓ 西城秀樹さんと河合奈保子さん。↓「理想の声に近づく本 大本式ヴォイス・トレーニング 1,000人の歌手・タレントを育てたヴォイス・トレーナー/大本恭敬/シンコーミュージックエンターテイメント」↓(P190)ヴォイス・トレーナーで審査員の大本恭敬さんが、最後に河合奈保子さんを押して決まったとの記載がある。(P196)河合奈保子さんの似顔絵。(P223)(P222)大本先生のヴォイス・トレーニングを受けたタレントたち。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 別冊近代映画 河合奈保子特集号/昭和56年(1981年)1月15日発行/近代映画社↓ 1980年3月16日、HIDEKIの弟・妹コンテスト、東京・中野サンプラザの決勝大会。河合奈保子さんが優勝した。↓ 河合奈保子さんは9番、小林千恵さんは11番だった。 司会のみのもんださん。↓ 西城秀樹さんと河合奈保子さん。ーーーーーーーーーーーーー↓ 夢・17歳・愛 心をこめて奈保子より/河合奈保子/ワニブックス↓(P19)3月16日、私は東京の中野サンプラザの楽屋にいました。大阪地区の予選に通った時も信じられなかったけれど、今、自分が決勝大会に東京へ来てることがもっと信じられない気持でした。大阪予選に通ったもうひとりの子(注)と、「だれが優勝するのかな」、「きっとあの子だヨ」なんてその時はまだ大阪弁で話してお弁当を食べたりしていました。(注)大阪予選に通ったもうひとりの子は小林千絵さん。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 昭和40年男 2024年6月号 俺たちが愛した昭和洋画/HERITAGE↓ (P116)小林千絵さんの紹介。(P119)「実は直前まで満場一致で優勝は小林千絵と決まっていた。ところが西城秀樹の鶴の一声で河合奈保子にひっくり返ったというのはアイドルマニア界隈ではよく知られている話だ」上記の西城秀樹さんの記載について、色々と資料を探しているのだが、よくわからない。時間があったら、西城秀樹さんに関する本を読んで調べてみたい。本当に西城秀樹さんが発言したのか、それとも話を面白くするため対外的にそのような話にしてスタッフが伝えたのか、いずれにせよ、当時の審査者でないと分からない。