家族ニューヨーク旅行(2)私(1993年10月)
オランダに駐在していた頃ですが、1993年10月に有給休暇を取得し、オランダからニューヨークへ遊びに行きました。会社の近くにある田舎の銀行で、駐在手当の一部を日本の口座に振り込んでいました。その窓口担当が、旅行も扱うので是非相談してほしいと言ってきました。そこでニューヨーク旅行の飛行機とホテル予約をお願いしたのですが、チケットとホテルクーポンしかありません。ホテルの詳しい地図が欲しいと言うと、「ニューヨークに行けば、何とかなります」と言われ、何ももらえませんでした。フライトの日、オランダ・スキポール空港まで自動車で移動していると、ひどい渋滞に巻き込まれました。このままでは間に合わないと思い、空港のカウンターに電話すると「できるだけ対応するので、急いで!」との事でした。空港に着いてカウンターに行くと、職員と一緒に特別なゲートを駆け足で通り、飛行機に搭乗することができました。職員から「あなたを待ったので、飛行機は遅延して出発します」と言われ、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ニューヨーク国際空港には、夜に到着しました。ホテルがどこにあるか分からないまま、空港で両替を行い、マンハッタン行きのバスに乗りました。バスの中で周りの人にホテル名を言って、どこで降りたらいいかを尋ねるのですが、皆分からないと言います。心細く思いながら、バスの窓の景色を見ていると、いきなりそのホテルのネオンサインが目に飛び込んできました。ビックリ仰天して、すぐに最寄りのバス停で下車しました。無事にホテルにチェックインしましたが、奇蹟的な感じがしました。もしバスの反対側の窓を見ていたら、ホテルに気が付かなかったでしょうし、とてもラッキーでした。(上記の銀行の観光窓口では、チェコ、スロバキア、ポーランド、ハンガリーを車で旅行した時も、ホテル依頼をしました。ホテルのクーポンには、ホテルとその100メートル周辺だけが簡易に描かれた地図を貰いました。「初めて行く場所なので、これでは分からない」と言うのに、「行けば何とかなります」と言うばかりです。当時は国境を超えるのが大変厳しく、車を降りて厳しい検査、尋問を受けたりしました。夜に次の国に入ると、自分が今どこにいるのかさえ分かりません。チェコのプラハは何度か行っているので分かりますが、ポーランドのクラクフ、ハンガリーのブタペストでは、案の定迷いました。1時間以上街をぐるぐる回り、完全に自分がいる場所が分からなくなります。車中泊を覚悟した頃、偶然にもホテルのネオンサインを見つけると、思わず「やったーっ!」と大声で叫びました。今なら、スマートホンで地図や自分の位置が簡単に確認できるので便利だろうと思います)ニューヨークでは、「メトロポリタン美術館」、「グッゲンハイム美術館」、「ホイットニー美術館」の絵を見ました。時間がいくらあっても足りないくらいです。船でリバティ島に行き、自由の女神像を階段で上りました。エンパイヤステートビルの展望台で、マンハッタンの景色を楽しんだり、セントラルパークを散策しました。夜はミュージカル「ミス・サイゴン:MISS Saigon」と「クレージー・フォー・ユー:CRAZY FOR YOU」を見ました。ヘリコプターでマンハッタン上空を遊覧する事が出来ると聞いて、朝早くヘリポートに行くと、すでに長蛇の列でした。かなり待ってやっとヘリコプターに乗りましたが、右側の席を指定されました。ヘリコプターはマンハッタンを反時計回りに飛行するため、左側の席の人たちは摩天楼をよく見ることができましたが、私の席からはマンハッタンの反対側ばかりで、とても残念でした。ニューヨークからバッファローに飛行機で移動しました。驚いたことに、飛行機の乗客は私1人でした。アテンダントの女性は2人で、私の席に飲み物の入ったワゴンを置いて、「好きなものを好きなだけ飲んでください」と言われたので大笑いしました。バッファローでは、ナイアガラの滝を見たり、カナダに入国してリスに餌をあげたりしました。バッファローからニューヨークに戻ると、街全体が霧に覆われており、全てが真っ白でした。ニューヨークからワシントンDCの飛行機を予約していたのに、深い霧のため、その便は欠航になりました。カウンターでウェイティングリストに登録しながら、「搭乗のチャンスがあれば、是非お願いします」と窓口の女性に懇願していました。かなりの時間が経った後、霧が薄くなり、最終便が飛ぶことになりました。カウンターの女性に呼ばれ、「通常の席は満席なので駄目だが、補助席で良いか」と聞かれ、喜んで「OK」と言いました。飛行機に搭乗すると、私の席は、客席1列目のまだ前にある壁の補助席でした。アテンダントが客と対峙して座る席です。補助席に座ると、正面の多くの乗客の視線を浴びました。私の人生の中で、アテンダントの補助席に座るのは、これが最初で最後だと思います。飛行機は無事にワシントンDCの空港に着き、それから予約のホテルを見つけるのに時間がかかりましたが、もう大した苦労ではないように思えました。その後、知り合いに誘われてニューヨークやニューオーリンズなどに行く予定にしていたのですが、オランダで従業員の解雇問題が出たので、急に行けなくなりました。アメリカはまた行く機会があるだろうと思っていたのに、行かないままこの歳になってしまいました。河合奈保子さんがアメリカを横断した映像のDVDを持っており、それを見ると、アメリカの懐かしい記憶が戻ってきます。老後には、妻と一緒に遊びに行きたいと思います。ーーーーーーーーーーーー【私が撮影した、ニューヨークの写真 1993年10月】↑ ワールドトレードセンターのツインタワー。1993年10月17日。↑ リバティー島の「自由の女神像」と私。↑ 自由の女神像に行く途中で知り合いになったアメリカ人。↑ 自由の女神像。↑ 自由の女神像とマンハッタン。ワールドトレードセンターのツインタワーが見える。↑ 自由の女神像の内部。↑ 自由の女神像の冠部分の窓。↑ この頃は、どこに行くときもフィルム用カメラと、ビデオを持ち歩いていた。↑ 自由の女神像の窓から見た景色。↑ 知り合いになったアメリカ人と記念撮影。この人とは文通をして、1年後にフランスのパリで再会した。ーーーーーーーーーーー↑ ホテルからの景色。↑ エンパイヤステートビルに行く。↑ エンパイヤステートビルといえば、映画キングコングで、コングが上まで登った映像を思い出す。記念に、キングコングのぬいぐるみを購入した。↓ エンパイヤステートビルからの風景。↑ このご夫婦とも知り合いになり、ポストカードを送りあった。ーーーーーーーーーーー↓ 「La muse 38 メトロポリタン美術館/講談社」↓ 「La muse 24 グッゲンハイム美術館/講談社」↓ 「La muse 49 ホイットニー美術館/講談社」ーーーーーーーーーーーーーーーーニューヨークのグッゲンハイム美術館に行ったとき、気に入って購入した手帳。ロイ・リキテンスタインの絵が表紙に印刷されてある。↓ ロイ・リキテンスタイン (ROY LICHITENSTEIN)「Oh, Jeff... I Love You, Too... But... 1964)↑ 手帳の裏側に、リキテンスタインの紹介が記載されている。手帳には私が色々メモを書き残している。ーーーーーーーーーーー↓ 「世界名画の旅6 アメリカ編/朝日新聞日曜版/朝日文庫」表紙はオランダの画家・モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」の絵。↑モンドリアンの紹介。ピエト・モンドリアン (1872~1944)オランダ生まれ。アムステルダムの美術学校に学ぶ。第二次世界大戦の危機を感じてロンドンに移住し、ニューヨークで亡くなる。↑ モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」この絵を見ると、ニューヨーク・マンハッタンの街で、ホテルはどこかと一生懸命探していた事を思い出す。