名古屋城散策(2023年6月17日)
2023年6月17日、名古屋城を駆け足で散策しました。天守閣は耐震問題があるため閉館中でしたが、その周辺を巡りました。(名古屋城のパンフレットと、各所の案内板の内容を記載しています)ーーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城天守閣。金の鯱が見える。金の鯱(シャチ)鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われていることから火除けのまじないとされてきました。名古屋の金鯱には慶長大判1,940枚分の金が用いられ、徳川家の権力・財力の大きさを示しました。金鯱の詳細写真手前 雌(南側)高さ:2.579m、重量1,215㎏、金板の種類:18K、金板の厚み:0.15㎜、うろこの枚数:126枚、金量(18金K)43.39㎏写真奥 雄(北側)高さ:2.621m、重量1,272㎏、金板の種類:18K、金板の厚み:0.15㎜、うろこの枚数:112枚、金量(18金K)44.69㎏ーーーーーーーーーーーーーー↓ 天守閣(奥)と、西南隅櫓(せいなんすみやぐら)/未申櫓(ひつじさるやぐら)慶長17年(1612年)ごろに建てられ、未申(ひつじさる)櫓と呼ばれた。外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。二階の西、南西に張り出しがあり、この下に石落としがある。床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。櫓は明治後期から大正期ごろに自然災害で倒壊したが、大正12年(1923)、宮内省により、故材を用いて再建された。鬼瓦に菊紋が見られるのはそのためである。↓ 西南隅櫓。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 東南隅櫓(とうなんすみやぐら)/辰巳櫓(たつみやぐら)本丸の南東隅にある屋根二重・内部三階の櫓。出窓には石落としが設けられている。かつては武具が収められていた。↓ 東南隅櫓。↓ 名古屋の名所を配したマンホール。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 本丸表二之門(ほんまるおもてにのもん)。古名は南二之門。本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに桝形を形成していた。本瓦葺の高麗門で、軒周りは漆喰塗りとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。↓ 鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られている。門の左右は土塀で鉄砲狭間が開いている。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 本丸表一之門跡(ほんまるおもていちのもんあと)本丸大手(表門)の東側の石垣をまたぐように、表一之門(櫓門)が建てられていました。慶長17年(1612)頃の建築と見られます。北側と西側の石垣上には、多門櫓(長屋状の櫓)が隙間なく建てられていました。南側の表二之門から侵入した敵を、櫓門と多門櫓の三方向から矢で攻撃する構造でした。このような四角形の日理場をもった城の出入口を、桝形虎口(ますがたこぐち)といいます。多門櫓は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し、取り壊されたと見られます。表一之門は昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。↓ 消失前の本丸表一之門。(門の横の大きな石が目印)↓ 大きな石が目印。 第二次世界大戦の空襲で、表一之門は消失した。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城本丸御殿。名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられⅯした。寛永11年(1634)には将軍のお成御殿として上洛殿(じょうらくでん)が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月には入口にあたる玄関、謁見の場である表書院(おもてしょいん)などの公開を開始しました。↓ 名古屋城本丸御殿本丸御殿は、初代尾張藩主の居城・政庁として使用するため、慶長20年(1615)に建てられ、後に将軍専用の宿館となりました。総面積は約3,100㎡、部屋数は30を超える平屋建ての建物です。昭和5年(1930)には、天守とともに国宝に指定され、名建築として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲により焼失しました。平成21年(2009)から復元工事を開始し、平成30年(2018)6月8日に全体公開となりました。ーーーーーーーーーーー↓ 名古屋城天守閣。名古屋城は昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲により本丸のほとんどを焼失しました。しかし名古屋のシンボルとして天守閣の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守閣が再建されました。再建された鉄骨コンクリート造の天守閣は、外観は昭和実測図に基づき正確に再現され、内部は消失を免れた本丸御殿障壁画(有用文化財)や武具などを展示し、名古屋城の歴史を市民に紹介する博物館としての機能を果たしました。現在耐震性が低いことに対応するため、天守閣を閉館しています。↓ 名古屋城の天守閣の中には入場できません。(現在、耐震性が低いことに対応するため、天守閣を閉館しています)↓ 不明門。(焼失再建)土塀の下に設けられた門。本来北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。左右には槍の穂先を並べた剣塀(つるぎへい)が続いている。昭和20年(1945)に焼失し、昭和53年に復元された。↓ 不明門。↓ 剣塀(つるぎへい)大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、堀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。大天守への敵の進入を防ぐもので、剣塀と称されている。↓ 堀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。瓦の下に、ずらりと穂先が並んでいる。