原爆で死亡した米兵捕虜の慰霊銘板(広島市基町12-8)
広島市紙屋町の宝ビル(広島市中区基町12-8)に、原爆で死亡した米兵捕虜の慰霊銘板があります。ここは、中国憲兵隊司令部があった場所です。原爆で日本人や近隣アジアの方々が亡くなられましたが、連合国側の米国人、英国人、オランダ人が含まれていたという話は知られておらず、歴史研究家の森重昭(もりしげあき)さんが長年調査をされ、本にまとめて発表されました。米軍捕虜については、私の母方の祖父も深く関わりがあります。1945年7月28日、米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」、「タロア号」そして多数の艦載機は広島県呉市を攻撃しますが、呉港の戦艦「榛名」の対空砲火で撃墜されます。撃たれた「ロンサムレディー号」は山口県玖珂(くが)郡伊陸(いかち)に落ちました。機長のカートライト氏などが捕虜となり、中国憲兵隊司令部にて尋問が行われます。私の祖父は司令部で勤務しており、米軍捕虜と英語で話したと言っていました。また、広島県佐伯区八幡(さえきくやはた)に爆撃機「タロア号」が墜落したというので、祖父は馬に乗って移動し現場検証をしました。途中の広島市草津町付近で、捕虜3人を乗せたトラックとすれ違った時は、町民が捕虜を見て「万歳、万歳」と絶叫し、圧倒されたそうです。司令部での尋問は「日本の他の大都市は米軍の大空襲に見舞われているが、なぜ広島はいまだに攻撃しないのか」という内容が主だったようですが、米軍は何も知らないと言うばかりなので、機長のカートライト氏を含め3人が東京憲兵本部に移されて、そこで詳しく話を聞くことになりました。私の祖父は一連の出来事を報告をするため東京に移動したのですが、その後、1945年8月6日に広島に原爆が投下されました。広島が全滅したとの連絡を受け、祖父はすぐに広島へ向かいました。広島に着くと、市内は焼け野原で建物がほとんど無く、瀬戸内海まで見渡せた事にショックを受けたそうです。中国憲兵隊司令部にいた軍人、米兵捕虜は全員死亡でした。終戦直後、GHQの命令により、祖父は広島県佐伯区八幡の墜落現場に行き、「米軍勇士之墓」と墨書きした6基の十字架を建立し、写真に収めました。また、憲兵司令部留置所の跡地で米軍捕虜の骨を拾い集めたり、米軍の認識票を見つけ、米軍に引き渡したそうです。歴史研究家の森重昭さんは、米軍捕虜について長年調査され、米軍B24爆撃機「ロンサムレディー号」の機長カートライト氏が米国に無事戻った事を知り、大変なご苦労をされて、カートライト氏とコンタクトを取る事に成功しました。カートライト氏は森氏の招待により、1999年に来日されます。カートライト氏は1946年2月に除隊後、1954年に農学博士となり、テキサス農業工科大学名誉教授になられました。中国憲兵隊司令部跡地に掲げられた銘板は、ロンサムレディー号の6人を含む全部で11人の原爆犠牲者の冥福を祈るもので、森重昭さんが発案し、何人かの浄財の提供を受けて1998年7月29日に建立されたそうです。写真は2016年9月3日に撮影しました。↑ 広島市紙屋町の宝ビル(広島市中区基町12-8)にある、原爆で死亡した米兵捕虜の慰霊銘板。↑ 銘板。↑ Site of Former Chugoku Military Police Headquarters. Photographed by Toshio Kawamoto.旧中国憲兵隊司令部の場所。 川本俊雄(かわもととしお)氏撮影。写真中央:被爆後の中国憲兵隊司令部。写真右上:ロンサムレディー号のメンバー。写真左上:タロア号のメンバー。↑The atomic bomb dropped on Hiroshima August 6, 1945 devastated the city and its people with a force beyond any known before. U.S.Air Force and U.S.Navy airmen interned as POWs at the Chugoku Military Porice Headquarters which was located at this site, near the epicenter, were among the victims of this holocaust. This plaque is placed in the memory of these brave and honorable men. May this humble memorial be a perpetual reminder of the savagery of war.1998.7.29(訳してみました)1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、それまでの人知をはるかに超えた力で街と人々を壊滅させた。米国空軍と米国海軍の飛行兵は、爆心地に近いこの場所にあった中国憲兵隊司令部に捕虜として収監され、大参事の被害者となった。この銘板は勇敢で名誉ある米軍犠牲者の記念として設置するものである。このつつましい記念碑が、残虐な戦争を永久に忘れないための一助になることを願って。1998年7月29日 ↑ 2016年5月27日。オバマ米国大統領と歴史研究家の森重昭さん。広島平和記念公園にて、↑ 私が持っている資料。右:爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵/トーマス.C.カートライト/森重昭訳/NHK出版/2004(平成16)年7月25日発行。中:原爆で死んだ米兵秘史/森重昭/光人社/2008年8月11日発行。左:文藝春秋(平成28年7月号)/文藝春秋/平成28(2016)年7月1日発行。P120~128「独占手記 オバマは広島で私を抱きしめた/歴史研究家/森重昭」。文藝春秋(平成28年7月号)/文藝春秋/平成28(2016)年7月1日発行。P120~128「独占手記 オバマは広島で私を抱きしめた/歴史研究家/森重昭」。↑ 銘板の下にある新聞記事。記事を上から読んでください。↑ ココカラファインの建物の右下に、慰霊銘板がある。↑ 広島市内。↑ そごう。紙屋町。