七福神めぐりウォーキング
きょう6日、日野七福神めぐりウォーキングに参加し、13kmを歩いてきた。ゴールが高幡不動尊の薬王院金剛寺に祀られている弁財天。それなら私もなじみだと、朝、出発地の日野市平山城址公園駅に向かった。受付で地図をもらい、9時出発。 最初はすぐ近くの宗印寺境内にある布袋尊。 隣あった御堂には平安時代から鎌倉時代初期にかけて現在の日野市平山を領した平山季重(すえしげ)の像が祀られている。平山季重は一ノ谷合戦、屋島ノ戦い、壇ノ浦合戦で勇名を馳せた。像は寄せ木造りの小振りの木彫。江戸時代初期の作らしいが、出来はきわめて優れている。日野市指定文化財。 ちなみに日野の七福神は、すべて仏教寺院に付属する御堂に祀られている。仏教と、日本古来の俗信と中国伝来の福神信仰がまざりあった民間神とが習合しているかのようにみえるが、宗教的に厳密な意味での習合ではなく、歴史的な背景はわからないが何時のころからか寺の境内に社が建立されて各々の民間神が勧請されたようだ。いかにも日本的と言えば言えないこともない信仰のあいまいさ・・・良く言えば、なんでも受け入れる寛容さがうかがえる。そこが面白いところかもしれない。 次は善生寺の大黒天。 三番目は延命寺の寿老尊。 この延命寺にも興味深い文化財がある。文明2年(1470) の年記がある秩父緑泥片岩に刻まれた板碑である。発見されたときはバラバラに割れていたそうだが、つなぎ合わせて周囲をコンクリートの枠で補強し、ほぼ完全に復元された。上部は二等辺三角形、種子(しゅじ;象徴する文字)は阿弥陀三尊で、中央部に阿弥陀如来のキリークを梵字で刻み、周囲を丸く光明真言で囲む。さらに天蓋と三具足(燭台、香炉、華瓶)を描いている。銘に「文明二年九月廿三日逆修善根一結衆等敬白」とある。・・・一結衆とは、講(こう)のことで、おそらく阿弥陀信仰の信者による講が結ばれていたのであろう。このような板碑が残っているのは珍しく、日野市ではこの延命寺のものが唯一とのこと。 四番目、安養寺の毘沙門天。 五番目、石田寺の福禄寿。 石田寺は土方歳三の菩提寺。近くに土方歳三資料館もあり、歩きながら目に入る家々の表札はどこもかしこも土方姓。 土方歳三は戊辰戦争のときに会津若松で戦闘に加わっている。新撰組は京都御所警護のために会津藩が組織したからだ。会津若松市の中心街である大町には土方が投宿した清水屋があったのだが、現在ではその場所を示す案内板が立っている。・・・会津若松は私が中・高校生時代を過ごした地。土方の菩提寺を訪ねるのも土地の縁だろう(そう想うことにした)。 さて、次の真照寺の恵比寿天までは距離が長かった。 しかし、この寺も私には比較的なじみである。というのはこの近くにその昔(平安ー鎌倉時代)に真慈悲寺という大伽藍があったとされ、その遺跡発掘調査がおこなわれている。3,4年前にその説明会を兼ねた発掘現場見学会があり、私も参加した。そのことは確かこのブログに書いた。 真照寺の門前の板書にもあったが、奈良時代から平安時代、さらに鎌倉時代にかけて、このあたりに一大集落が存在したらしい。あるいは、真照寺・真慈悲寺・高幡山金剛寺と一直線に並んで存在するところを見ると、一大霊場だったとも推測できる。鎌倉時代にはこのあたりは直接鎌倉と武蔵とを結ぶ重要地であったことは確かで、それは山を登って真慈悲寺のあったとおぼしき場所に行けば地形的に納得理解できるのである。 それはともかく、真照寺は明治時代には寺子屋として近隣の子弟の教育をしていたが、大正時代に不慮の火災で楼門と御堂一宇を残して焼け落ち、廃寺になったという。現在、復興して、楼門・御堂は江戸時代の姿のままに善男善女を迎え入れている。 私はこの境内のベンチに腰をおろして一休み。持参した水を初めて飲み、ヨックモックのシガールひとつを食べた。 最後の七番目はおなじみ高幡不動、薬王院金剛寺にある弁財天。12時20分、ゴール。13kmを3時間20分で歩いたわけだ。疲れはしないが、さすがに長歩きだった。両側の大腿骨の骨盤との付け根、転子部が痛んだ。過日、多摩丘陵縦断ウォーキングに参加したときは9kmだった。いまのところ私には13kmくらいが限界か。・・・3月にはまた観梅ウォーキングが企画されているらしいので、それが何キロのものか・・・三たび参加してみよう。 境内は初詣客でおおにぎわい。100を越す露天が並び、香煙がくゆる。私は弁財天を詣でてから、露天のひとつで足を止め、「信州おやき」を二つ買った。茄子味噌と野沢菜が餡になったもの。これが昼食。おいしかった。