会津磐梯山の檜原湖で水中考古学調査
会津磐梯山の檜原湖で、水中考古学等のチームによる湖底探索が始まったそうだ。TBS NEWS DIGが伝えた(10月15日放送)。 134年前の明治21年(1888)、磐梯山が噴火し、約500人が死亡した。このときの火砕流が河水を塞き止め檜原湖を形成、旧米澤街道の宿場町として繁栄していた桧原宿が湖底に沈んだ。 このたびの水中考古学的探索は湖底の遺構を調査することにより、火山災害に対処するためのデータを収集するなどの目的を有するようだ。 TBS「檜原湖水中考古学調査」 このブログ日記で、私は前々日、私自身の会津若松市に住んでいた中学・高校時代の幕末史にかかわるほんの些細な個人的な思い出を書いた。そしてまた、磐梯山の噴火といえば、中学1年のときに自室の勉強机の上のラジオで聴いたNHK第一放送のドラマチック朗読、井上靖原作の『磐梯』を思い出さずにはいない。私をラジオに釘付けにしたみごとな放送劇だった。そのときから65年近くなる現在まで、忘れないでいるのだから、私の感受性をいかに揺さぶったかが分かるであろう。 じつはそのちょうど1年前、昭和32年(1957)8月に、磐梯山の檜原湖に家族で行った。巨大な火山岩に寄りかかった私の写真がある。それが広大な桧原湖のどのあたりであったかは、いまでは分からない。湖底に宿場町が沈んでいることも知らなかった。昭和32年8月 磐梯山檜原湖で 私12歳 そうだ、あれは高校三年のときだ。やはり夏休みにはいったばかりで、私は札幌の両親の家に帰るために会津若松駅から列車に乗った。東京に出て、羽田から飛行機に乗るつもりだった。そして猪苗代駅でおおぜいの観光客が乗り降りし、混雑のため自由席を確保できなかった青年男女が、指定席車輌の私のボックスに移ってきた。女性は足に大きな怪我をしていた。真っ白い包帯が痛々しかった。青年は退屈をもてあまして私に話しかけてきた。・・・・女性は、檜原湖で湖底にあったガラスが足に突き刺さったのだという。そして、青年は驚くべきことを私に話し始めたのだ。彼は、人を殺め、いま刑期を終えて出所したばかりで気晴らしの旅行をしている。その旅行も女が怪我したために、檜原湖で打ち止めになった、というのだった。 彼らは檜原湖のどのあたりに遊んだのだろう・・・ ・・・ああ、この話、過去にこのブログに書いたことがあった。 きょうの一句 煙立つ愛憎のはて薄もみじ 青穹(山田維史) 愛憎の煙ひとすじ薄もみじ 煙立つ秋旻高し山家かな