ヘーゲル『歴史哲学』序論11 B.(c)自由の実現体の国家(その2)
ヘーゲル『歴史哲学』序論11 B(c)自由の実現体の国家 その2、ヘーゲルの国家観についてヘーゲルの『歴史哲学』序論、B.「歴史における理性とはなにか」、(c)「自由の実現体としての国家」、その第2回目です。前回は、ヘーゲルの国家論-「国家の本性(本質)とはなにか」、それが探究の入口だったんですが。今回は逆に、その探究していった結果から、結論から探ってみます。第72節「国家についてこれまでのべたことをまとめると」(P94)ということで、ヘーゲル自身が、第72,73,74節の、3つの節にまとめています。この3点を、確認しようと思います。一、ただ、そのことに入っていく前に、ひとつのことわりが必要だと思っています。それは、マルクスが『資本論』第2版への「あと書き」(1873年)で、指摘している点です。次の様な一文です。「私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとは根本的に異なっているばかりでなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの自立的な主体に転化しさえした思考過程が、現実的なものの創造者であって、現実的なものはただそれの外的現象にすぎない。私にとっては反対に、観念的なものは、人間の頭脳のなかで置き換えられ、翻訳された物質的なものにほかならない」(新日本出版社『資本論』1分冊 P32)。当時(1873年 明治6年)は、世界(ヨーロッパ)の、世間の一般では、ヘーゲルを「死んだ犬」(何を今さら、過去の人じゃないか)と扱っていたようです。それに対して、晩年のマルクスですが、その『資本論』の「あと書き」で、指摘しています。ヘーゲルの今に生きている意義について、マルクス自身も含めて世界がヘーゲルの業績におっていることを、あらためて紹介しているんですね。ぜひ、その全体について、確認してほしいと思います。今に生きている問題なんですね。二、さて今回の本題ですが、ヘーゲルはこの国家論において何を言いたかったのか。ヘーゲル自身が語ってます、第72節「国家についてこれまでのべてきたことをまとめる」(P94)と。それは、第72、73、74節の、3つの節において、まとめています。そのまとめとは、どんなことか。1、第72節 国家の生命力は、個人からすると共同の精神であり、国家の法律や機構、その自然や歴史である。一切が国民の所有物であるとともに、国民はこの一切に所有されている。この精神的全体は、一つのまとまりをなし、それが「民族の精神」です。国民は民族精神のもとに生きるのであって、それぞれの個人は「民族の子」であると同時に、国家が発展する限りで、「時代の子」です。時代にとり残され人もいなければ、時代を飛びこえる人はいない、と。2、第73節 民族精神は輪郭のはっきりしたものであり、民族の歴史的発展段階を明確にしめすものです。民族の意識が、宗教、芸術、学問、といったさまざまな形態をとるなかで、民族精神はその基本的内容をなす。精神は自己を意識するとき、自己を対象化せざるをえず、この客観化はさまざまな形をうみだし、客観的精神のさまざまな領域-宗教、芸術、哲学-をつくる。その一方、その魂は一つにまとまる。このような実体と内容、対象は、根源的には此岸にあるものだから、とらえられた形態は、国家の精神と統一される。3、第74節 特定の民族精神は、世界史のあゆみのなかでは一つの個体にすぎない。世界史とは、精神の神々しい絶対の過程を、最高の形態において表現するものであり、精神は、一つ一つの段階を経ていくなかで、真理と自己意識を獲得していくものだ。各段階には、それぞれに世界史上の民族精神の形態に対応し、そこには民族の共同生活、国家体制、芸術、宗教、学問のありかたがしめされる。一つ一つの段階を実現していくことが世界精神のたえざる衝動であり、抗しがたい要求です、と。これらのヘーゲルがまとめている点は、マルクスが指摘した「さかだち」に注意しさえすれば、全体としてことがらの関連をとらえてますね。大きな業績ですね。このヘーゲルの努力がなかったら、マルクスの科学的社会主義の社会思想も、今の様なまとまった形にはなっていなかったかもしれない、そんなことも感じさせられるんです。このマルクスの批評には、そうしたヘーゲルに対する敬意が込められていると感じさせられている次第です。三、以上のまとめを念頭に置きつつ、ヘーゲルの国家論、『法の哲学』に詳しく展開されてるわけですが、この『歴史哲学』のc.では、第47節から第71節までの、25の節について検討してみるわけです。その細部にわたることはできません。それは、それぞれ各人が当たっていただくしかないのですが。そこで論じられていることの大筋だけ紹介します。1、「国家が自由を実現するものだ」 それに対する誤りの説。 第48節初めは自由だけど不自由になるとの説、第49節「自由は直接に存在するものではなく、訓練課程を経て獲得されるもの」。2、「社会的正義が法律の形をとる」に反対する家父長制への批判 第50節「法の前の平等」、第51節、第52節。これはヘーゲルがフランス革命の意義、近代民主主義の成果をといてることじゃないですか。3、「自由の、客観的自由の側面と主観的自由の側面」 第53節「個人の同意」を絶対視するとどうなるか、第54節、第55節「政府や行政当局が必要になること」。4、国家のあり方を支配者と被支配者から、一般に君主制-寡頭制(貴族制)-民主制にわける見方。 第56節古くからの「3つの政治体制」論、第57節「どれが最善かを選択する考え方」。5、今日では、一国の政治体制を自由に選択できるとは考えない。 第58節「世界史のあゆみのなかではあらかじめ決まっている」。 最初につくられる国家というのは、家父長制的な王制。 第59節、真の独立国家の発展には、必然的なあゆみがある。 家父長制的な王制-寡頭制(貴族制)・民主制-君主制。ヘーゲルは、この歩みは必然的で、その時あらわれる体制は選択する余地なく決まってると。6、国家の体制にとり重要なことは、政治の内部機構が理性的に編成されていること。 第60節、自由が客観的に存在するということは、どういうことか。7、国家の歴史的発展は、原理のちがいとして現れる。 第61節「一般に国家は歴史状況の変化の中でかわっていく」、第62節古代と近代では共通でない。8、概念としての自由は、主観的意思や恣意を原理とするのでなく、万人の意思の洞察を原理とする。 第63節、理性的意思はその内容を明確にし、発展させ、様々な側面を有機的に位置づける。9、ここまでの考察をまとめる。国家と宗教、芸術、哲学の関係について考察する。 第64節、国家は民族の具体的な生活の諸要素、芸術、法、道徳、宗教、学問の基礎であり、中心だ。 第65節、頂点に位置する宗教。そして芸術。そして哲学、もっとも高度な、自由な、広範な統一。 第66節、3つの形態は国家を土台としてつくられている。10、民族精神 第67節、国家のあらゆることをまとめる民族精神、その中心に宗教がある。宗教を考察するのに重要なことは、真理となる神の理念が、それだけで切りはなしてとらえるか、真の統一体としてとらえるか。11、宗教と国家との関係。 第68節「国家が宗教に依存しているわけ」、第69節「国家の原理を神(至上)のものと認識させる」、 第70節、宗教を植え付けようとのさけびについて。 第71節、逆に国家と宗教を切り離そうとする愚行について。こうした考察をしたあとで、ヘーゲルは前の三点のまとめをしてるんですね。3つのまとめた点と、それにいたる各論での考察との関連を検討することが大切では。四、私はこれまで、ヘーゲルの文章は難解ですから、文節の一つ一つまで踏み込んで探ることはなかったんです。気に入った箇所だけノートしておくといったことでしたが。レーニンも入り口としてはそうだと思うんですが。ただしレーニンは、大戦の忙しい緊張の最中にもかかわらず、『大論理学』『哲学史』『歴史哲学』に、一生懸命に、丹念にあたってるんですね。もちろん人間ですから、そこには制約もあるんですが、すばらしい努力です。私は福田静夫先生の「ヘーゲル学習会」に参加する機会を得て、2022年に『法の哲学』の国家論を学習したんです。90歳を超える福田先生ですが、その学習態度が、またすごいんです。さすがでした。文節に番号をふって、その主張を確かめる。翻訳もご自身の訳文もつくって、ヘーゲル自身の主張をつかもうとされていた。そうした基礎作業の上にたって、ご自身の意見を言うとの姿勢だったんですね。学者としての良心を感じさせられたんです。その最後に、『歴史哲学』の本論・第四部「ゲルマン世界」を学習したんです。『法の哲学』の最後には「世界史」がありますが、その関連で、『歴史哲学』の第四部を学習したわけです。この本論学習のおかげで、本論を学習してこそヘーゲルが「序論」で言いたいことが見えてくるということがあるんですね。私は以前に2020年でしたが、『歴史哲学』序論の学習をブログ発信していたんですが、あらためて、再挑戦する必要性を感じさせられました。今回はその時よりかは、すこしは細部に近づいてると思うんですが。ところが迫ろうとすればするほど、「宗教論」などの大きな問題が出てきたりして。実際、ヨーロッパ世界の歴史は、そのために何百年も大変な宗教戦争の戦乱をくぐってきているでしょう。それをも総括しようとしているんですから。宗教心の無い私などからすると、新たな不可解な大問題としてでてくるといった面もあるんですね。現行の日本国憲法もそうした教訓にたってるんですが、私などは、今だもって曖昧だったということです。この宗教論の点でも、ヘーゲルとマルクスは、今に生きる宝をもっているとおもいます。よく理解出来てませんが、しかしそれを感じさせられます。なによりも、ヘーゲル自身による第72節以降のまとめですが、これはマルクス・エンゲルスにとって、ここを出発点とも土台ともして、自らの新たな世界観と思想をさぐり始めていった。それがみえてきます。しかしまぁ、これも私などの学習の過程です。今回の「c.自由の実現体たる国家」の学習は、ここまでとします。まだ、この先がいろいろあるからですが。次回は、「C.世界史のあゆみ」にはいります。「序論」は、a.発展の原理、b.歴史のはじまり、c.世界史のすすみかた、残り3節です。