源頼朝が旗揚げした小田原・早川の石橋山古戦場です
源頼朝が旗揚げした石橋古戦場小田原のみかん狩りに来ると、定番の歴史解説ですが、豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの一夜城、その史跡散策があります。もう一つは、源頼朝が旗揚げして敗れた石橋山の古戦場があります。この二つを、東京から来たみかん狩りの人たちに、毎度講釈しています。片や秀吉・家康による日本全国を統一するための最後の戦いですし、片や鎌倉幕府がつくられるドラマチックな展開です。東京から伊豆方面に行く時、交通渋滞して悩まされるのが石橋インター付近です。国道1号線、小田原厚木道路、西湘バイパスの3道路が合流して、1車線の通行となるからです。いつも行楽へ行き来する人たちが苦労させられている所です。そこが石橋山の古戦場なんですね。昔も今も、交通の要衝になっていて、源頼朝はここで押し寄せる平家方の大軍を足止めしようとしたんですね。関東の各地から支援の軍勢が集まるのを待とうとしたんです。『平家物語』の巻五「早馬」にそのことが出てきます。平家方の豪族・大庭景親が1180年9月2日に早馬を都・福原に送って、頼朝が蜂起したこと、石橋山に立てこもったけどさんざんに打ち破った、と知らせました。頼朝は8月17日に伊豆の代官所を襲って、石橋山に立てこもった。頼朝方300騎と平家方大場氏など1000騎が狭い谷(今、鈴廣のお店があるところ)をはさんで激突した。8月23日午前8時ころから合戦が始まったとのこと。(『源平盛衰記』によると)多勢に無勢ですから、頼朝は「大わらわ」の戦いをしたけど、散散の負け戦となった。ここまでが、9月2日の早馬の急使がつたえた中身です。頼朝は7,8騎となりますが、箱根山の山沿をかきわけて湯河原方面に逃げたんだそうです。かなりの落ち武者狩り、追討が行われたようですが。結局、頼朝は、私たちが相模湾の地魚を賞味した真鶴町ですが、そこの岩海岸から、漁師の小舟で房総半島の千葉に逃れたんだそうです。追討をかわして、九死に一生を得たんですね。一方、平家は9月18日に3万の頼朝討伐軍を、関東平定のために出発させます。やはり『平家物語』巻五に「富士川」があります。東の源氏と西の平氏が、静岡の富士川で10月23日対峙したそうです。有名な水鳥の羽ばたきの音で、平家の軍勢は逃げ出しちゃったんですね。私などが注目するのは、一、8月23日の負け戦から10月23日の富士川までにたった2カ月ですよ。大わらわで負けた頼朝が、どうして短期間に数十万の総大将となった現れたのか。可能性が、どうして現実になって現れえたのか。この急速な変化の点ですね。二、もう一つは、富士川で対峙した時の両軍の士気の違いですね。平家方の8万騎ですが戦々恐々としていたこと、内心ではおびえていた。『平家物語』には、戦場に女性も連れて来ていたというんです。それを蹴倒して我先に逃げ出したというんです。そうした混乱ぶりが描かれています。まぁ、こうしたことを紹介しようとしたんですが。バスのガイドさんとは大違いで、うまくは伝えられなかったんですが。日本史の中にも、時代が変化するときに、生きたドラマがあったことは確かなんです。それは、荒廃した社会を変えようとする人たちにとって、たいへん刺激にも、参考にもなる話だと思っています。