援農の支援おかげで、みかん園の荒廃化を、少しですがとめました
みかん園を再生させるために小田原の石垣山みかん園に、6月1日に援農者が来てくれました。農家の人たちの高齢化は、耕作面積を狭めざるを得なくなっています。1,2年でも人の手が及ばなくなると、クズの蔓がみかんの木を覆いつくして、木は枯れてしまいます。今回は、手の及ばなくなった畑の一角を再生させることでした。次の写真は、今回の再生させようとする場所ですが、遠方からその様子を写したものです。この時期は、一雨降るごとに雑草が繁茂してきます。私など一人では、とてもその自然の力にはかなわなくて、途中でヘトヘトのクタクタにさせられて、なかなか作業の終わりが見えなくさせられちゃうんですが。ところが、援農の人が一人、1時間の手助けてくれたおかげで、その大仕事ですが、ほぼ完了しちゃったんです。これが、草刈り作業をした後の様子です。クズの蔓に覆われた中から、まだ何とか葉をつけていたみかんの木を5本復活させました。次の写真は、作業をしている最中の様子です。まわりの竹や下草を刈ってから、みかんの木に巻き付いて、木を覆い隠しているクズなどのつる草をはぎ取りました。この一角への手入れは二度目だったんですが、これで計18本のみかんの木が、太陽の光を浴びて再生する可能性が出てきました。小田原・早川のみかん園では、手の及ばなくなったみかん園が3割あるというんです。手が入らないままで数年たつと、再生できなくなっちゃいますから、情況をとらえて、手が及ばなくなった畑には、すぐに援農者の支援に入る、それが大事なんです。農家は体力のギリギリまで頑張って、手入れをあきらめざるをえない状況なんですから。私などの手元には、みかんについての三つの資料があります。一つは、『小田原近代百年史』(中野敬次郎著 形成社 1969年(昭和44年)刊行) この中の、第四章六「相州蜜柑」では、みかんの歴史とみかんの盛んだったころの様子が紹介されています。一つ上げれば、片浦地域のみかん畑の面積ですが、明治3年150反、明治33年1,440反、大正10年2,280反、昭和16年2,940反、昭和25年3,118反とみかん畑は広げられていった。二つは、小田原公共職業安定所のみかん援農者の記録です。みかんの収穫期に、小田原方面に季節労働者として出稼ぎに来ていた人の数です。1987年(昭和62年)102人、1989年(平成元年)65人、1993年(平成5年)69人、1996年(平成8年)58人。ハローワークにはそれ以前のデーターはないというんです。また1996年を最後にして、それ以後はみかん収穫の季節援農者を農家が雇えなくなった。統計を取ることもなくなったと。青森や秋田県の雪国から11月・12月に収穫援農に来てくれていたんですね。三っつは「小田原市農協三十年のあゆみ」(1994年(平成6年)9月1日刊行)です。こには、日本が経済大国といわれるまでになったが、「しかし、農政面では選択的拡大という増産の時代から一変して、農畜産物の輸入自由化、農産物価格の相対的低迷による生産調整を余儀なくされる時代へと変わり、・・・。最近の十年間については、みかんの集団廃園による大規模な転換事業や、コメについてもガット・ウルグアイ・ラウンド交渉の結果、部分自由化が決定され、食糧管理制度の根幹まで揺さぶる時代となりました」(穂坂組合長の発行あいさつ)この第二章の座談会では、農家の生の声が語りあわれています。その中から幾つかピックアップすると、「ミカンも年間360万トン時代から、現況の160万トン時代となってもなお、長い間の生産調整の効果がなく、価格も低迷している中、どのように現状を考えているのか」「ミカンで生計が立てられないということは、私は(私としては)ないと思うんですよ」「後継者問題と兼業農家が多くなってきた」「オレンジ果汁の自由化で、今年の正月以降、いっぺんに(問題が)押し寄せてきた。加工みかんがこれほどに下降したわけで・・、ジュースの現物支給という形で消費を願ったわけです」「去年まで柑橘をやっていた人が突然、正月から建設業にいった、話を聞くと『一人一日、一万五千円になり、2ヘクタールつくっても一年間でそれだけの収入にならないから、とにかく職を変えました』との言葉だった」「生産している方は60歳以上の方ばかりになっていくわけで、後継者問題があるんです」この中で、すでに現在私たちが直面しているも諸問題が出されていたと思うんですね。いったい、国や政治は、この30年前の農家の人たちの声に対し、どれだけの真面目な、しっかりした政策をたて、実行してきたかですが。現在でも、首を絞めるような自由化強行と、「農家の自己責任でなんとかしろ」との路線ですから。国民の食糧自給率を、本当に高めるためには、どの様な政策が必要なのか。農家・農業を国民生活の立場から、どの様な安定した経営を続けれるようにしていくか、国民的な討議が必要ですね。耕作の手の及ばなくなった畑を、援農の力も借りて維持していく、石垣山のみかん園を再生させる活動というのも、今回の草刈り作業も、そうした打開への一つの要素になっていると思います。もちろん十分なものでは決してないけれど、なにもしないよりはましだと思います。