被災地の支援で、福島県・小名浜と塩屋崎を回ってきました
被災地支援で、福島県の小名浜と塩屋崎をまわる10月14日(日)-10月15日(月)と、福島県を回ってきました。初日は、東北自動車道をつかって福島に入り、県庁のある福島市の渡利生協病院に。二日目の15日は、福島県の浜通りに位置するいわき市小名浜、そこにある小名浜生協病院を訪ねました。ともに医療生協の役員の方たちから、現在おかれている状況について、お話をお聞きしました。今回は、小名浜の状況からです。医療生協の理事長さんからお話を聞かせていただきました。去年の3月11日すらの地震・津波に直面してからの問題と、くわえて、その直後に、「原発震災」によって、たいへんな事態に直面したこと。当地の北に位置する樽葉町では、原発事故によりすべてをそのままに緊急避難してから、20キロ内という「警戒区域」とされ、立ち入りがいっさい禁止されたこと。ようやくこの8月10日に「避難指示解除準備区域」となって、出入りは出来るようになったが(宿泊は出来ない)、町は時計の針が止まったままだったけど、水田は背丈もある草に覆われて、その様子は一変していた。立ち入りが禁止されていたので、そりまでは行方不明者の捜索もできなかったこと。今現在も、見えない放射能のために、深刻な生活被害が広がりつつあることを、最近になって入れるようになったものの、日常生活していた場所は、全体が無残な状況に変わり果てていて、使えるものを持ち出すくらいが、目下のところとのことでした。最近撮った写真を使って、混乱のままになっていた住居や施設の状態、草の生い茂った水田やお寺の状況、常磐線の鉄道も広野駅以北は草に覆われ開通のめどはなしなど。その被害の実際を紹介していただきました。福島県いわき市は、福島第一原発から約30キロから60キロ距離の範囲にあります。福島県の調査によっても、2012年3月現在で、避難指示による避難者が100,000人、自主避難が50,000人の、計160,000に及んでいること。160,000人の人たちが、それまでの生活手段を奪われた状態に置かれていること。今現在、23,000人の周辺の人たちが、いわき市に避難してきているそうです。これは、移動の途中で見かけた仮設住宅の一部です。直面している問題ですが、避難者はじめ福島の人たちの生活、健康、人権をまもるためには、除染、廃棄物処理、健康管理、知識情報、子育て支援、被災者支援、賠償・・・。立ち入りの禁止が開示をされて、片づけがあるにしても、生活を再建していくには、問題が山積していることが伝わってきました。いわき市は、水素爆発のあった当日は、たまたま雨や雪が降らなかったので、他の地域と比べて、その分はまだ幸いだったようです。たまたまとのことですが。同じ距離でも、放射能の被害が比較的に少なくて済んだのだそうです。山積する問題の前に、貴重な時間を割いての説明でした。現在、福島の人たちが直面している問題の一端を感じることが出来ました。小名浜生協病院で説明を受けた後で、小名浜市場で昼食をとり、港の水族館や周辺を見てから、薄磯にあるいわき市立豊間中学校へ向かいました。小名浜港から浜通りに沿って北に進むと、様子は一変します。津波の大きな被害がそこかしこに残されたままです。豊間中学校を目指しました。海岸に沿って曲がりくねった道をすすむと灯台が見えてきました。それが、塩屋崎の灯台でした。ここに来るまで、私は知らなかったのですが、美空ひばりの「みだれ髪」に歌われた塩屋の岬というのは、この塩屋崎灯台だそうです。また、木下啓介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)、これも、ここが舞台だったそうです。そうした昔から名は耳にしていた灯台は、この塩屋崎の灯台だったんですね。本来なら、この灯台や海岸は、風光明美なところですから、観光客でにぎわっているはずですが、今は、まったくひっそりしたまま、人影はなくなっていました。この見ている場所は、豊間中学校のすぐ前です。岸壁沿いに道路があり、その道をはさんで右側に学校はありました。ブルーの枠は、学校の校庭の隅にあったプールです。建屋は土台を残しているだけです。今、その校庭の大方は、見ての通り、ガレキが高々と積み上げられていました。そのガレキの山の右側に校舎がありましたが。中学校の校舎は、津波にやられたままで、まったく使用できる状態ではありません。敷地にはロープが張られていて、「立ち入り禁止」の表示がされていました。近づいて校舎の様子を写真に撮ろうとしたのですが、なるべく近くでしっかり見ておこうとしたんですが、柵には入っていなかったんですが、警備員の人に「立ち入りは禁止だ」と、きつく叱られました。豊間中学校の撮影はやめました。代わりに海岸通りの道に沿った家々の跡を撮りました。学校の並びは、ほとんど家らしきものがなく、ただの平地になっていました。ここに家々が立ち並んでいたことは、残された家の土台によってうかがえるだけです。津波が、土台の上にあったすべてを押し流して、ガレキにしてしまいました。「この集落で125人の人が亡くなっている」、警備の人は言っていました。この道の先に福島原発があります。当地は、福島第一原発から約35キロの所です。第二原発からなら25キロくらいの距離です。ここから北に向かって、放射能の影響がどうなっているか気になります。ぽつりと、家の片づけをしている人も、ごく少ないですが、見かけましたから。その影響は、必ずしも距離の問題だけではないのですが。今福島は、二重の問題に直面しています。地震と津波の被害の深刻な結果と、そこからの再建していく問題があります。同時に、目に見えない放射能の影響の問題です。当地に来てみると、今でも低線被害は続いていますし、除染はごく部分的に始まったばかりです。子どもたちへの影響を不安を感じながら、当地での生活再建を努力すね人たち。すすみの遅い除染、進まない賠償。食べ物の安全性も問題です。そうした現地が切迫して抱えている問題、その一端を肌で感じることができました。現地に行ってみないと、聞かないと分からないことが、たくさんあるんですね。報道や、想像だけでは、つかみにくい状況があります。これは説明してくれた理事長さんの言葉ですが、震災と原発災害は、日本のどこで起こっても不思議ではありません。今、現実に深刻に問題に直面している福島の人たちに身を寄せて、なるべく早く打開していく力を、政治や科学の良識を、しっかり結集しなければならないと思います。以上、福島を2日の行程でしたが、まわってみての感想です。