9月1日は防災の日ですが、小田原方面の被災が『郡史』にありました
『足柄下郡史』にみる関東大震災神奈川『足柄下郡史』は昭和4年6月に刊行された本ですが、その復刻版が1987年に出されていました。郷土の歴史を、昭和4年の時点でどのくらいのまとめをしているのか、その点でめくっていたんですが、『鎌倉殿の13人』もありますから。この歴史篇は、学校の先生方がその断片をつくり、それを編集したとのことですが、歴史文献を実証的に調べていて、現在の歴史認識の基礎となっていることを感じました。昭和四年の人たちの努力も、たいしたものです。御見それしました。その中で、「六、小田原海嘯(かいしょう)と関東大震災」に注目しました。大正12年9月1日の関東大震災から、昭和4年の刊行ですから、まだそれほど歳月が過ぎていないんです。「大正12年9月1日、・・午前11時58分を一画線に、至るところ、未だかつてない凄惨極まる場面を現じた。殊に震源地に近かった本郡は、震動烈しく被害激甚、小田原町・真鶴村の如きは、地震についで火災を起こし、両地ともに焦土と化したし、片浦村及び根府川・米神の如きは、災後山崩れの為、部落の大部分は地下に埋没し、一家全滅のものも少なくない惨状であった。」(P273)次いで、小田原の惨状について報告されてます。「住家の被害」の資料をみると 総戸数 消失 流失埋没 全壊 半壊 計小田原町 5,312 2,268 1,740 1,304 5,312真鶴村 653 365 22 95 171 653岩村 245 70 78 71 219ようするに、すべての家屋が被害を受けたということです。「罹災者調」では 総人口 焼死 流死 潰死 不明 計小田原町 22,778 219 179 9 407片浦村 2,556 53 303 1 357真鶴村 3,329 67 5 39 5 116岩村 1,380 10 49 5 64当時は今と違って、郡役所が役所として独自の役割をもっていたようです。だからこうした資料も残されたということです。私などは、1950年に岩村に生まれたんですが、関東大震災については、古老たちから幼いころに聞いたことがあります。「震災の後、平地に引っ越してきた」「岩村の中ほどにあった火の見やぐらくらいまで、漁船が流されて横倒しになっていた」体験した人たちは、亡くなってしまったわけですから。小っちゃな子どもとしては、御祖母さんなど話の中で、何かの時にポロっと聞いたことで。その話の意味や現実性を受けとめることは、当時としては出来なかったんですね。ましてや、世の中は、歳月を過ぎると、社会全体からそうした意識は薄れて消えていくものですから。そうした中で、たまたま開いた『足柄下郡史』の中に、まだ傷痕ものこっていただろう中で、こうした生なましい資料を見つけたわけで、あらためて、震災について考えさせられ、思いを新たにさせられます。自分だけじゃなくて、もっと一般にも知られるべきもので、貴重なものと思います。関東大震災は、東京は文化の中心ですから、そこには沢山のメディアの活動もありますから、活字や写真、映像などの資料に残ってますが、震源は関東の片田舎でしたから、そこにはそうした資料というのは少ないんですね。「突然の地震により家々が潰され、火災が町全体に大きく広がり、大きな津波が来た」「道路は寸断されて孤立化し、火は2日間燃え続け、状況を把握するだけでも、困難を極めた」この表ですが、この調査した現実の数字をにらんでいると、私などにも、うっすらと、状況が浮かんできます。大変な被災の一端が見えてきます。戦争もそうですが、そうした大変な中をくぐりぬけて、今があるわけですが、瞬時に惨禍に投げ出された人たちに、その体験に思いを寄せることも、「防災の日」のもつ大事な意義かと思います。ましてや、戦争は人災ですから、この方は必ず防止すること。この方は、私たちの今の努力にかかっているということです。