ルーツその4、町から届いた母に関する報告
町からの母に関する知らせ4月15日は、真鶴で草取りあと、大平台で休憩したのですが。大平台に移動する途中、町に一つの調査を依頼しておきました。この間、偶然ながら自分のルーツを調べることがありました。ひおじいさん、そしておじいさんについて、知ることが出来たのですが。一つ、抜けている人がいて、不明な点がありました。私の母についてです。母は、かなり前の1967年(昭和42年)11月に、44歳で死去しています。当方が高校2年の時でしたが。その時は、大よそ、ひとが死ということが、どういうこと分からなかったんですが。2000年、父の通夜の時に、その葬儀を世話してくれていた一人の夫人が、「あなたのお母さんに教わったんですよ」、一言でしたが、教員をしていたことを聞きました。父の亡くなったころには、まわりのほとんどの縁者は、すでにあの世に行ちゃってますから、母については、私自身、もちろん思い出はあっても、よくは知らなかったんですね。今回、それで町の方に問い合わせしておいたんです。それに対する町からの返事が、4月16,17日にありました。それによると、「1.1939年(昭和14年)4月5日から同.8月31日まで岩小学校の代用教員をしていた。2.1945年(昭和20年)3月31日から昭和21年10月31日まで岩小で訓導をしていて、退職した。」さらに、「3.福浦小学校で、1940年(昭和15年)4月1日から1946年(昭和21年)3月31日まで勤めていて、岩小学校に転出した。」と。これらのことは、近親者に聞いても、かすかな記憶しか残っていなくて、ほとんどのことは、記憶の彼方となり、分からなくなっていたんですね。改めて、母は、1923年(大正12年)生まれですから、16-17歳で母校の代用教員になったこと。隣の福浦小学校で6年間、岩小学校で1年半の間、22歳の時まで教師をしていたこと。しかもその時期は、第二次大戦の末期から、新憲法へ社会や教育が変わる時だったこと。私などには、母の想い出は、それほど多くないのですが、ましてや、私などが生まれる前のことに関しては、分かりませんでした。いまやそれを知っていた人は、ほとんど亡くなってますから、分からない空白の世界になっちゃってたんですね。今回、ダメもとで町に問合せしたところ、役場の方があちこち調べてくれました。「小学校の沿革史」から分かったとのことですが、私などにとって、まったく知らなかったことがらでした。これらのことは、遠い想い出の、さらにその背景となるたいへん貴重な歴史でした。悲しくも貴重な記録ですね。