粋の文化 (其の1)
今日の花は、長実雛芥子(ながみひなげし)。学名では、Papaver dubiumというケシ科の一年草だ。風にそよぐ様子が、華奢で愛らしくもあり、どこなく色っぽい。(長実雛芥子 砂浮琴撮影)遊郭や遊女などというと、売春宿みたいなマイナスイメージを抱いて、現代のセックス産業や性風俗と同じようにしか捉えない人も多いと思う。事実、金を支払って遊女と床を共にするのだから確かにそうだ。そもそも、江戸に廓(くるわ)ができたのが元和三年(1617)のこと。当初、人形町の界隈にあったのが明暦二年(1656)に現在の浅草へ移り、吉原として三万坪の大歓楽街になった。"男は一度はお伊勢と吉原へ"...などという言葉が残るほど、江戸の男は、一生に一度ぐらい吉原を経験してみたいと思っていたようだ。遊女にもランクがある...まずは禿(かむろ)。ハゲ(笑)じゃなく新造以前で、今でいう見習い。新造は新人、次に局女郎、河岸女郎、座席待、部屋待、附廻しと続いて昼三、呼び出し、呼出し以上の姐女郎(散茶女郎、格子女郎)と続き、花魁が最上級の遊女となる。"花魁"は、おもに吉原での呼称で、上方だと太夫(たゆう)と呼んだ。また、遊ぶと一国が傾くほどの美女と称え、傾城という呼び名もあったらしい。花魁、太夫、傾城は、いずれも同レベルの超高級遊女だった。ちなみに、局女郎(つぼねじょろう)の相場は、百文(1,000円)から二朱(7~8,000円)。江戸後期では、上級遊女だと一両二分(100,000円)ほどの相場だったようだ。しかし、二、三両支払えば花魁といちゃいちゃできると思ったら大間違い!花魁の前に、まず取り巻きの妹女郎や芸者連中、たいこもちを呼んで、大盤振る舞いして、本命の花魁の気を惹く必要があった。こうして、各ステップと段階を楽しみつつ、花魁と恋の駆け引きをするのも、吉原通いの"粋"な遊び方♪ 当時でも、吉原遊郭は相当な大金がかかるシステムだったから、花魁と二人っきりで盃を交わし、膝枕なんかしてもらえる仲になるには、財力と地位があって、それなりの人物で、相当な心構えが必要だった。面倒だと思うかも知れないけど、これが公家、大名、旗本、豪商など、江戸の一流のステイタスでもあり、大人の男の嗜みでもあった。ってことで、粋の文化は(其の2)へ続くとしよう♪(笑)