篤姫 (50) 「一本の道」
■ねえねえ、あおいちゃん、あのまま死んじゃったの。裁縫をしながら眠るように目を閉じた天璋院の姿を見て、ちいちゃな子供が尋ねた。そうするとそれを一緒に見ていたお父さんかお母さんがこう答えるわけだな。あれはね、燃えつきてしまったんだよ。自分の役目、役割を全部成し遂げた時、人はあんな風に見えるんだよ。実はそのお父さんも、「あしたのジョー」の最終回を見た時、自分の父親に同じような質問をして、同じような答を聞いたことがあった。■オープニングのタイトルバックで姫の歩く一本道に一瞬光がさした。この最終回スペシャルバージョンを見逃した人がいたら、ぜひ再放送でチェックされたい。最後の最後に映るふたつの蓮の葉までこの精緻なクリムト風CG画像は大河史に残る名作だと思う。それゆえ最後まで堀切園ディレクターには本編の演出にかかわって欲しかった。それが今年の大河の唯一の心残りかもしれない。■年号が代わり、明治元年から天璋院の最期までの10何年間かを一足飛びで見せた最終回。大久保(洋装)+木戸(侍風)+岩倉(公家風)の三者会談に見る三人の衣装のちぐはぐ感がまさにあの時代の慌ただしさを映している。ついこの間まで藩主だ家来だ鎖国だ攘夷だと言っていた人々がそう簡単に新しい制度に馴染むとは到底思えない。まして徳川幕府はなんだかんだ言っても300年近くも君臨していたわけだし、武家政権まで遡れば700年間続いていた体制を一変させることは1年や2年でできることではない。■だからね、この幕末という時代に新しい道を切りひらいた人たちのエネルギーたるやものすごいものを感じるわけ。消費税ひとつ年金問題ひとつに汲々している現在の政治と比べてみれば、そのスケールの大きさに驚くわけよ。そしてそれが一般大衆のしかも、下層武士たちの力で行われたということも驚異。そこではもちろん、たくさんの血が流れているはずなんだけどね。■しかしながら、この大河ではそんな幕末の激動期の物語を女性目線でまるでホームドラマのように描いたということが特徴。血が流れる場面はいつもの幕末ものに比べ極端に少なかった。宮尾登美子原作とあるが、こうして通して見ると、脚本家・田渕久美子オリジナルの大河ドラマだったということもできると思う。■三谷幸喜の「新選組!」にも唸ったが、今回の50話も当初から幾重にも張られた伏線が終盤音をたてるように収まっていく様にちょっと感動した。まだ彼女がおきゃんな女の子だった第1話「天命の子」からもうすでに最終話に至る本作のテーマがしっかりと提示されていたわけだ。■いわく、「天命」と「役割」。序盤、法を侵してまで藩の財政を立て直した調所(平幹二郎)に始まって、於一を育て上げた菊本、姫を教育した幾島、大奥を守った滝山、幕府を守るために鬼になった井伊直弼、そしてもちろん主人公である小松帯刀と天璋院に至るまで、ほとんど全ての人物がそれぞれの役割を全うするドラマだった。そこにはそれぞれ迷いや逡巡はあったが、必ず誰かが誰かを包みこむようにして背中を押したのである。■最終回の薩摩の母と兄との再会シーンはこのドラマらしくでとても素敵だった。片方聞いて沙汰するな、考えるな感じろ、自分が信じる道を行け、という三大格言はわたしも家族に機会があれば切々と語りたい名言集だった。ただし、それを朝御飯の席かなんかで「言っておきたいことがある」なんてやると誰も聞いてくれないと思うので、ぜひその使い方には注意したい。■瑛太という役者は普段は何を考えているんだかわからないところがあるが、その分、与えられた役柄に憑依してなりきってしまったように見えるところが得なような気がする。この誠実な小松尚五郎もまた好演だった。臨終のシーンはあえて甲高い声でのぞんだのだろう。人の最期といえば掠れ声という定説を覆す解釈が斬新。前回天璋院との別れの際に言った彼の「そうですね」というセリフ回しは『アヒルと鴨』のドルジを思い出させてくれた。わたしにとって瑛太君は「そうですね」の人なのである。■その小松だけでなく、西郷も大久保も天璋院の前から姿を消していく。そんな「友の死」の連続にうちひしがれる主人公に薩摩のお近さんから一通の文が届く。この香木のプレゼントは時を超え姿をなくしても想いは受け継がれるというテーマを映し出して見事。フランスみあげのパルファン(Perfumeね)から始まった今日のドラマがここでもリンクする。そう、ともさかりえは終始匂いをもたらす女性として描かれていた。■前向きな女性、自立した女性、ポジティブシンキングな女性。全50話出ずっぱりだった宮崎あおいに最大限の拍手を。ドラマのラストで彼女の回想する一本道は高速回転で見せる巻き戻しの一生だった。40代でひいおばあちゃんになり、30代で大奥を閉じ、20代で未亡人になり、二十歳そこそこで将軍に嫁ぎ、十代で薩摩の殿様の養女となり、青春の真っ盛りに尚五郎と出会う。あおいちゃんはおそらく最初からペース配分を考えていたんだと思う。おてんば時代はできるだけ高い声を出そう。家定公との寝室では一番可愛い顔を見せよう。天璋院となったら、樋口可南子のように喋ろう。そして明治になったら・・・。■自分の実年齢を超えた役を演じる時、何を根拠に役づくりをすればいいのか、たいていの人は迷うと思う。でも彼女にはいつのまにか篤姫がのりうつっていた。だからまわりの役者たちは彼女に対し自然に天璋院に対するように振る舞った。あおいちゃんにしてみれば、それを受ける芝居をすれば良かったわけだ。だから演技プランなんかあってもなくても同じだったとも言える。宮崎あおい、23才、おそるべし。