馬か犬かはたまたパンダか(フェラーリF40 GTE)
いっこ前の記事で「BPR珠海・先陣争いするフェラーリとマクラーレン」画像を出したところで、その絡みで。レッドライン1/43 フェラーリF40 GTE "1995ルマン24h DNF"#40 アンデルス・オロフソン/ルチアーノ・デラ・ノーチェ/太田哲也 BPR珠海(ズーハイ)戦が開催された1995年のルマン24時間レースに出場した際のフェラーリF40 GTE。珠海時とはスポンサーが若干変わっていて、ルマンでお馴染みFAT(運送)に日本の雑誌ティーポとかコーンズ(正規販売代理店)がスポットでお金出してる。いくらしたんだかわからんが、バブルがはじけたとはいえまだ余力はあったのかな?出版不況真っ只中の現在では雑誌社がスポンサーなんてもう絶対やんないだろうね。 1987年の発売から8年を経てようやくルマンに姿をあらわしたF40。そもそもルマンにはとっくのとうに登場しているはずだった。F40デビューの翌88年には、GTCクラスってのを新設するからF40をレース仕様に仕立てない?ってハナシに乗っかってF40 LM(以下LM)を3台作っている。なのに肝心のGTCクラスはフェラーリ以外のどこのメーカーの賛同も得ずに計画は頓挫。もう作っちゃったのに弱っちゃったなぁのLMは活動の場をアメリカIMSAへ。アレジとかジャブイーユとかが乗っかってそれなりの結果を残すけど、まあ言ってみればアメリカは偉大なる片田舎の草レース、たとえチャンピオンを獲ったとしてもさほどのもんじゃない。更にはイタリアのGTレースに出たりF40でのレース活動は細々と続いていくが、最大にして最後の機会が訪れる。 Cカーが崩壊して一躍脚光を浴びるカタチになったBPRグローバルGTシリーズに参戦するためにGTEを仕立て、その勢いを以てついにサルテの舞台に立つことになる。2台のGTEと1台のLMが参戦し2台は完走するものの#40号車はスタートして42周で残念ながらリタイア。もっとも公道ですら壊れやすいイメージのあるF40が完走したほうが驚異なんだが、ドライバーメンツをみると#40号車がエースだったような気がするんだけど、エースだけが奮わないってのはレースの世界ではままある話だ。 本当はこういうシーンがサーキットのあちこちで見られたらよかったんだろうけど、結局ルマンもBPRもほぼマクラーレンF1GTRの独り勝ち。当て「馬」噛ませ「犬」としても客寄せ「パンダ」としても何とも微妙な立ち位置。翌年まで参戦を続けるものの、本格的はワンオフ「なんちゃってGT1」の勃興には抗する手立てもなく一線を退く。 フェラーリのスペチアーレとしてはこの後、F50、エンツォ、ラ・フェラーリと系譜を下るわけだがいずれもレースに出ることはなく、F40の人気がダントツなのはそういうところもあるんだろう。