原田マハ著「たゆたえども沈まず」で描かれたナポレオン三世の従妹のサロン
原田マハ氏の「たゆたえども沈まず」の中にパリで活躍する日本人画商「林忠正(1853-1906)」がナポレオン3世の従妹「マチルド・ボナパルト(1820-1904)」の「サロン」に招待を受けていたと書かれていました。 時は19世紀の後半、フランスは第3共和制でナポレオン3世は既に失脚していますが、フランスでの「ナポレオン家」への憧れは途切れることがなかったと書かれています。馬車にナポレオン家を意味する「N」の文字を見ただけで色めき立ったようです。 彼女のサロンにはロシア、モロッコ、トルコ人など様々な国の富豪や名士、社交界の重鎮達が招待されていたようですが、その中でも「浮世絵」など日本絵画の知識が豊富で流暢なフランス語を操る忠正はマチルドと直接話が出来るほど別格の扱いを受けたようです。 本の中のこの箇所に興味を引かれたのは大富豪であり絵画鬼集家のロシア人「セルゲイ=シチューキン(1854-1936)」がパリでどのようにして画商や画家と出会い、当時評価が定まっていない印象派の絵を手に入れたのかと思っていたからです。「セルゲイ=シチューキン」も「マチルド・ボナパルト」のサロンの招待客の一人だったらと想像が広がります。 彼のロシアの邸宅では「マティスの間」「ピカソの間」「セザンヌの間」と呼ばれる画家ごとの部屋が客をもてなしていたほどでした。そしてマティスとは自宅を飾るための「ダンス」の制作を直接依頼するほど近い関係だったというのは有名な話です。果たしてピカソやセザンヌとも画商を通して絵を買う以上の交流があったのならとても興味深いです。 「マチルド・ボナパルト」はウィキペディアにもその生涯が書かれていて、実は従妹のナポレオン3世と婚約したものの彼が政治的理由で逮捕されてしまったため、ロシア人の大富豪と結婚したとあります。彼の暴力のため離婚を決意した際は、何とロシア皇帝「ニコライ1世(1796-1855)」が仲介役となり多額の慰謝料が彼女に渡ることになり、その潤沢な資金でパリでも1,2位を争うほどの「サロン」を開けたのかと思います。 ニコライ1世と言えば、サンクトペテルブルグにある「エルミタージュ美術館」に膨大な数の美術品を保存するために「新エルミタージュ」を作った人です。「肖像画 ニコライ1世」 グリューゲル 1827年 エルミタージュ美術館所蔵