町家の通り庭について
このブログは京都編を終えたはずなのに京都の話題ばかりで申し訳ないです。しかし書き始めるとどんどん出てきてしまうもので、どうかご容赦下さい夏の建具替えの涼しさと同時に浮かんでくるのが「通り庭」の空間です。 玄関から奥まで連なる土間で、吹き抜けの天井には煙出しと光取りのための小さな天窓があります。そこからの光がレンブラントの絵画のようにほの暗い空間に落ちてきます。土間は土を固めた三和土(たたき)なので、打ち水を吸い込んでしっとりとしています。下駄やサンダルの音も柔らかく響きます。 この町家に通り庭がある理由についてはいろいろな人が通説を語っていますが、一番の理由は便所であると私は思ってます。 便所は町家の一番奥にあり、汲み取り式だったので、その通り道が必要だったのです。少々汚い話で申し訳ないのですが、昭和の半ばまでは近隣の農家や「こえ汲み屋」さんが桶とひしゃくで回収に来ており、1950年の中頃になるとバキュームカーがやってきました。作業の後は消毒液を噴霧してくれますが、土間はところどころが汚れたしてるので、その都度水で流してました。なので京都の町家で、改築して土間をなくす家が増えるのは、水洗便所が普及する1960年前後の頃となります。 また、他にも土足で出入りする人が多かったという理由もあります。町家には勝手口がないので、玄関から様々な業者さんが入って来るのです。米屋や酒屋が台所まで納品に来てくれます。行商の魚屋さんは流しで魚をさばいてくれます、八百屋は漬物用のかぶらを縁側に山積みにしてくれます。炭屋は炭や練炭を運び込み、冷蔵庫は氷で冷やすタイプだったので、夏には氷屋が冷蔵庫に氷の塊を入れに毎朝来てくれます。 このように様々な業種の人が台所の奥まで立ち入ってくるのです。当時の京都の日常生活は土足で出入りする人達で支えられていたので、土間は必要不可欠な空間でした。 また洗濯場や風呂焚きも土間の奥にあったので、来客があっても下駄ばきのままで玄関に行けましたし、豆腐屋のラッパが聞こえたら鍋を持って表に駆け出します。当時の生活は土間を介して町と密接につながっていました。(母の実家である祖父母の家の間取りイメージ) また、この通り庭に板を渡して作業場にすることもありました。茶の間を広くし、そこにちゃぶ台を出して井戸で冷やしたスイカや瓜を食べたりしました。天窓から落ちてくる陽光や、通り抜ける気持ちいいそよ風、風鈴の音などが映画の一コマのように今も思い出されます。 この板床は普段は壁に止められていて、それを倒して使ったと思います。暮れにはここでついた餅を丸めた記憶もあるので、一年を通していろいろな場面で使われたようです。ただ、土間が通り抜けられなくなって不便なので、臨時的な使われ方だったのでしょう。 この通り庭の仮設床については、記述された資料を見たことがないので、一般に普及していたのかどうかは分かりません。しかし滋賀県の親戚の旧家でもこんな板床を使っていたのを覚えています。 幼い頃の想い出になってしまった通り庭について、久々に思いを巡らしてみました。------------------------------------------------------------前のページ/20220215 座敷すだれの淡い眺め次のページ/20220303 お雛さんの「ちご人形」------------------------------------------------------------