中大兄皇子の同母妹との許されぬ愛!
中大兄皇子は、父は舒明天皇、母は舒明の皇后であった皇極天皇である。626年に生まれているから蘇我氏を滅ぼしたときはナント十代だったということになる。そして、母である斉明(皇極)天皇の跡を継いで天智天皇となったのは668年のことで20年以上も皇太子だったことになる。今でこそ譲位がないので何十年も皇太子をやることは普通になっているが、人の命が短かった当時としては、これはちょっと異常だ。まず、中大兄皇子の父舒明天皇についてであるが、敏達天皇の孫ではあるが、天皇の子ではない。推古天皇の没後629年に蘇我蝦夷に押されて即位した。(本来なら聖徳太子の子である山背大兄王が天皇になるべきであった。)当然舒明は蘇我氏には頭があがらなかったであろう。皇后の宝皇女は再婚である。元々皇位に就けるはずのない皇子との気楽な再婚であったろう。ところが、蘇我氏の力で夫が天皇になり、夫が亡くなると蘇我氏は男子の継子である中大兄皇子ではなく皇后を天皇にした。これは時間稼ぎだったと思われる。皇后が天皇をやっている間に天皇家を完全に凌駕する権力を得ようと思ったのであろう。その皇后が皇極天皇というわけである。ところが世の中そうそう上手くはいかないもので、蘇我氏は中大兄皇子によって滅ぼされてしまう。そこで中大兄皇子が天皇に即位するかと思いきや、母皇極天皇の弟である孝徳天皇が即位(645年)する。ここなんかとっても変だよ。実力NO,1なのに何故中大兄皇子が即位しなかったか。中大兄皇子は孝徳天皇への押さえとして妹を孝徳天皇に嫁がせる。間人(はしひと)皇后である。大化の改新のときのそれぞれの年齢は孝徳天皇49歳、中大兄皇子19歳であるから、間人皇后は十代か二十歳そこそこであったろう。ピチピチギャルの身で五十男に嫁いだことになる。不自然な結婚には不自然な愛が芽生えるのであろうか。間人皇后には兄に対する思慕の情が、中大兄皇子には妹に対して爺さんに嫁がせてすまないという気持ちがあったであろう。そしてこの兄妹は超えてはならない一線を越えてしまうのである。