噤みの午後
うれしかったこと。この間、図書館で、おじいさんの調べものを手伝った。おじいさんが最初に求めていたぴったりの答えにはたどり着けなかったけれど、周りの人にも相談し、できるかぎりの調査をして、その結果を伝えた。その人が、わたしのいない間に、「先日はとても助かりました」とわざわざお礼を言いに来てくれたそうだ。探している本に出会ったり、知りたかったことがわかったとき、小学生もおじいちゃんもおばちゃんもお姉さんも、みな一様にぱっと顔をかがやかせる。そうすると、こちらも胸に灯りがともったような気持ちになるのだ。四元康祐「噤みの午後」をふと読みたくなり、家の詩集の棚から抜いてページをめくる。とりとめもなく読んでいて、ふと、見おぼえのある構図の絵画を、モノクロで印刷したページに行き当たった。だれもいない部屋、開け放した扉のむこうに扉、そのむこうにもまた扉…デジャヴのような軽いめまいにおそわれる。この絵なら知っている。一昨年の秋、国立西洋美術館の展示室で出会い、以来胸に棲みつづけている静寂。デンマーク生まれの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵だ。詩集を買いもとめたのはさらに三年ほどさかのぼるから、展覧会を見る前から、わたしは四元氏の詩の中でハンマースホイと出会っていたことになる。道理で、絵を見たとき、知っている風景のような気がしたはずだ…四元氏はみずからの詩の中で、中原中也やレンブラント、キーツそしてハンマースホイ(ハマショイ、と四元氏は発音している)にも、時空を超えて面会し言葉を交わす。詩の中で人は何にでもなれ、誰にでも会える。空だって飛べるし、宇宙にも行けるだろう。詩人の宇宙に入りこんだわたしは、ページの間で過去の自分の影を見つける。あっと言ってつかまえようとするそばから、過去のわたしは次のページに逃げこみ、見つけたと思ったひらめきは、圧倒的な「現在」の存在感にとってかわられてしまう。親密であたたかな感じのするものと同じくらい、手が届きそうで届かない、ひんやりした感触の絵や言葉が好きだ。そのことをはっきりと自覚したのは、図書館で子供のころ読んだ絵本に再会し、それらをまた子供らと一緒に読むようになってからだ。わたしが「おもしろい本」として記憶していたのは、どちらかと言えば理不尽で、ひと言では説明のつかない、不思議や不条理をふくむ本ばかりだった。白い扉が開け放たれた、誰もいない午後の部屋の真ん中で、わたしは、自分がとうに置いてきた、忘れたと思っていたものたちに再会する。この部屋は、わたしが訪れるか否かには関わりなく、はじめからここにあったのだし、これからもありつづけるのだと確信する。窓を開け、扉を閉め、霧のにおいのする新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで、わたしは、わたしの静寂の中に帰ってくる。「白い扉、あるいは開いた扉」1905年※「噤みの午後」は在庫切れのようですが、現代詩文庫で四元氏の詩が読めます。四元康祐詩集価格:1,223円(税込、送料別)