ゆめみるハワイ
恋に落ちてしまった。少し前から習い始めたフラが、楽しくて仕方がない。今習っている「レイハリア」(思い出のレイ)という曲の美しい振付、何度踊っても飽きるということがない。ゆっくり教えてもらっているのでまだ1番しか踊れないけれど、夕食の支度をしながら、あるいは仕事の合間に、その1番をいつまでも、何度も何度でも踊っている。フラの手の動きは、手話のように、ハワイ語の歌詞の意味を表している。ハワイに吹く熱い風や、レイの甘い香りを自分の体で表現できるのは、なんて素敵なことなんだろう。私の専門は、この世界の美しさ(人の心も含めて)を言葉で表現すること。でも、仕事場でひとり言葉と向き合う時間が長いから、放っておくとどうしても煮詰まるし、頭でっかちになる。そんなとき、外に飛び出して、いろんな年代の、この島で生きている生身の女の人たちと他愛のない話をし、大声で笑い、一緒に体を動かし、頭を空っぽにして、ハワイの空や海や風や花を全身で感じることがどれくらい救いになるか。とても言葉では言い尽くせないほど。そしていつでも「うふふ…」と笑っているかわいい先生の踊り、見れば見るほど大好きになる。「ちょっとやってみるね」という軽い感じでも、先生が踊り始めると、周りの空気がさーっと変わる。先生の手足の動き、ひとつひとつから目が離せない。踊る先生の周りにあたたかい霧雨が降り、南国の花が咲き、波が打ち寄せる。ハワイの有名なミュージシャンが「涙そうそう」をハワイ語にアレンジした「カノホナピリカイ」という曲を先生が踊ってくれたときには、あまりの美しさに目頭が熱くなった。フラを始めて、ハワイへの思いは募るばかり。あのゆったりした時間の流れが恋しくて、手に取ったのはよしもとばなな『ゆめみるハワイ』。そしてこんな一節に行き当たった。私は、フラの世界で自分だけの道を歩んでいる。(中略)そこには私だけに見えるなにかがあり、私だけの小さな上達があり、挫折がある。休みがちだし、運動神経がなくっても、確かに道はそこにある。フラをやっていない人たちが全く知らないハワイの言葉や歌を歌い、踊れるというかすかな喜びを感じている。そして私はすばらしいダンサーやクムが、私を見るとほっとするような存在でいたい。(中略)自分が自分にとってぴったりくる役割の中にすんなりいること。その中でたったひとり、遅い歩みでも進んでいること。自分が自分でいるだけ、それ以上の幸せがあるだろうか。小説の現場とフラの現場で役割は違っても、自分でいるだけでいい。私は、息子が「もう引っ越しはいやだ」と言う日まで夫と一緒に根なし草の暮らしをすると決めているから、たったひとりの先生に師事し、ひとつのハーラウに所属してみんなと歴史を積み重ねる、という在り方はできない。でも、旅人の私にしかできないことがきっとあるはず。それを探しながら、仕事もフラも、ゆっくり長く、自分だけの道を歩いていきたいな。読書日記 ブログランキングへ