燃える指(4)「遠い戦場」
「遠い戦場~15 years ago」 ほんの数ヶ月離れていただけなのに、西洋骨董の店「アマルティア」が向こうに見えた時、加奈子は懐かしく感じた。そして胸が痛んだ。それは懐古の念とは違う、もっと複雑な痛みであった。また始まるのだ。いや、もう終わりが近いのだ。何度も生まれ変わりながら、それだけは逃れられなかった出会いと別れが、また自分の前に繰り返されようとしている。いつも甘受していた運命を、今回は抜けだそうとしたのに・・何も、何も変わらないままに、この生も過ぎていくのだろうか。それとも・・店内に加奈子を迎え入れたサギリの笑顔は、以前と変わらなかった。まるで昨日も会ったばかりの様に見えた。漆黒の髪を腰まで伸ばしたサギリは余計な言葉は言わず、奥の部屋に加奈子を連れて行った。そこは応接間の様になっていて、ソファや肘掛椅子、低いテーブルが具合良く配置されていた。そのソファに、一人の青年が横たわっていた。「そばに行ってあげて」サギリはそう言うと、出て行った。青褪めた顔、細いおとがい、細い体。重い使命を担うのは余りにも酷に見える。「カヅキ・・」加奈子はかすれた声で、そっと呼んでみた。そばに跪き、手を握る。温かい命がカヅキに流れ込む。カヅキは目を開けた。加奈子を見て微笑んだ。「ありがとう」余計な事は言わない。彼はいつもそうだ。運命を受け入れた時から彼は寡黙に歩み続けていた。自分の死に向かって。加奈子の目に映るそのもうひとつの身体は傷だらけで、傷からは銀の血が流れていた。もう加奈子にも癒し切る事は出来ない。カヅキもそれを知っている。カヅキは起き上がった。「行かなくちゃ」「無理よ!」加奈子はカヅキの胸に手を当て押し止めた。「”壁”が崩れかけてる。早く行かないと」「アウルに行ってもらえば?マサトは?」「あそこまでは行けない。僕が先に行って導かないと」カヅキは加奈子を真正面から見た。その瞳は澄んでいた。「僕に力をくれないか、最期の戦いの為に」加奈子は息を飲んだ。久しぶりの再会が別れになるのか。アウルはそれを知って私を迎えに来たのか。いや、私はとうの昔にそれを知っていたはずだ。今度あの闇の奥で戦えばカヅキは帰って来れないと。今にも消え去りそうな銀の身体。カヅキを守る鎧でもある物。「わかったわ」「夜明け前には行く、それまで・・」二人は寄り添い、加奈子の命がカヅキに流れ込み、カヅキの傷が癒されていく。誰も部屋には来ない。最期の時間・・この人生でも又二人に別れがやって来る。「君に逢えて良かった。僕はいつも君の事だけは覚えているから」加奈子はカヅキの胸に顔を伏せて泣いていた。「他はみんな忘れてしまうのにね」私も覚えている・・だから、こんなにもいつも悲しい。カヅキは起き上がった。「行くね」ほとんどの命を与えた加奈子は動く事はもうほとんど出来ない。彼を止める言葉すら口にす事は出来ない。それでいいのだ、彼は無駄な事は言わない。私も言わない。言うものか。これから先、ひとつ残らず胸に抱いて生きて行く為に。貴方との思い出を。カヅキは加奈子の上に身をかがめ、唇を重ねた。それが別れの挨拶だ。扉の前でカヅキは立ち止まった。「また逢おうね」扉が閉まると、加奈子は再び泣き出した。彼の出て行った扉と反対の扉からサギリ達が入って来た。加奈子は涙を拭った。「私はあの人が出て行くのを見なくてはならない。それも二度と戻らないのを知りながら」サギリは、床に崩れ落ちたまま加奈子を抱きしめた。「それは私も同じよ。けれどもこうして、あなたを抱きしめる事しか出来ないの。カヅキはいつも、私達よりも先に来て戦っている。そしてその銀色のもうひとつの体が、ぼろぼろになるまで、戦い続けているの」「そんなの酷すぎるわ!何の為なの?誰の為に?誰もあの人の事を助けようとしないの?あなたたち・・」サギリが、ぽつりと言った。「私達が悲しまないとでもいうの?」その言葉に滲んでいる苦さが、加奈子に顔をあげさせた。サギリだけではなく、神内もマサトも、その非情に見える瞳の奥に哀しみが宿っている事に、加奈子は、初めて気がついた。彼等もいつもこの別れを体験して来たのだ。幾度となくカヅキと出会い、その悲惨な姿を眺め、最期を見届けて来たのだ。カヅキを黙って見殺しになど出来るはずがないのだ・・共に戦い共に生きて来たカヅキを・・「カヅキの戦いはカヅキにしか出来ない。俺達はそこへ行く事が出来ない。あいつが俺達の行ける所まで『奴等』を追い出すんだ。」神内が言った。透明な怒りが彼を包んでいた。『奴等』を切り裂く剣の持ち主でありながら、カヅキを助けられない自身への怒りである事が加奈子にも解った。華奢な少年の様にみえるが大いなる退魔の力を持つマサトは静かな声で語った。「加奈子さん、僕等を責めないで下さい。みんな、それぞれに役目があるんです。僕等には僕等の、そしてあなたにはあなたの・・・」いきなりマサトは言葉を切った。そして全身を震わせて何か短い叫びをあげた。加奈子以外の人間は、さっと色めき立った。「カヅキが呼んでる!」マサトの声に、神内は素早く壁に立掛けてあった不可思議な盾を掴んだ。あの盾は特別な物なのだ。カヅキの為の物だから。加奈子はぼんやりとそれを見ていた。「いくぞ、マサト!」マサトは美しい横顔を残して、先程まで店に通じていたのに今や異次元の暗黒に向い口を開けている扉の中に消えていた。カヅキが出て行った扉だった。その後に続こうとして神内は立ち止まり、加奈子を見た。その顔には哀惜とも憐憫ともつかぬ表情が浮かんでいた。それは一瞬だった。「あとを頼む」低くうめく様な声を残して、彼もまた闇の中へ消えていった。サギリは加奈子を助け起こしソファに座らせ、自分も傍らに腰をおろした。「私はどうすればいいの?」「私達に出来る事はとても少ないの。『奴等』を一匹倒した所で、またやって来るわ。でもね、その一匹を倒さなかったらこの世界は壊れてしまう。私達以外にも同じ様な人間がいるかも知れない。でもそれはわからないし、知るすべもない。出来る事が少なくてもそれをやらなくちゃ・・」「私、私に出来る事はまだあるの?」サギリはきれいな微笑を加奈子に向けた。温かい、そしてそれだけに切ないものが加奈子には見て取れた。サギリはソファに深く身をあずけ、宙を見据える様な目をして語り始めた。「もう、二人はカヅキの所まで行ったわ。『奴等』は手強いけれど、逃げた・・カヅキが倒れているの・・神内が助け起こした・・カヅキは全身から銀色の血を流しているわ・・そして、そして傷ついた指で、『奴等』の逃げた方向を指差している・・マサトが駈けて行く・・空が紫に輝いている・・カヅキの生命が・・そんなに時間がないのね・・カヅキ・・」加奈子は大きく目を見開いたままサギリを見詰めていたが、突然、耳を押さえて叫んだ。「やめて!やめてやめて!聞きたくない!」サギリはそんな加奈子の様子には見向きもせず、遠い戦いを語り続けていた。「カヅキ・・神内が、アウル・マシヤが最期の別れを告げている・・マサトも・・『奴等』の居場所を突き止めたのね・・これから二人で行くのよ・・カヅキが・・盾に横たえられている・・もう・・目を閉じたまま笑っているわ・・今度はどこへ行くの?・・ああ・・カヅキ、またね・・」「やめて!あの人が死ぬ所なんて聞かせないで!」加奈子は泣きながら、サギリにむしゃぶりついた。サギリの肩に爪が食い込む程にきつく掴みかかった。しかし、サギリは抵抗もしなければ、避ける事もしなかった。人形の様なその手応えのなさが、加奈子を正気に戻した。「加奈子・・カヅキは戻って来る」「え・・」「貴方の中に・・」カヅキの命が尽きた時、加奈子の意識は闇に飲み込まれた。このまま目が覚めなければいいのに・・・意識を失う寸前、加奈子は思っていた。神内はマサトを両腕に抱きかかえて戻って来た。「手強い奴だった。数十年に一度位の大物かもな」加奈子の横たわるソファと反対側の長椅子に彼はマサトを降ろした。「マサトは乗っ取られそうになって、心を自分で閉ざした。しばらく目覚めない」神内も空いている椅子にどっかりと腰を落とした。頑強な彼にも疲労の色が濃い。「被害は大きいわね」サギリは珈琲の入ったカップを神内に渡した。「どこの”壁”が崩れたのだ?」「セバスチャンの所よ」「彼の?信じられんな」「アナトールが何か仕掛けたらしいわ」「あの裏切り者め」「初子さんの”壁”の後継者もまだ未熟なままで、セバスチャンの負担が大きすぎたの」「”壁”の問題までは、俺達の手には負えないな」「セバスチャンもヘマは二度はしないでしょう」神内は珈琲の香りに戦いの緊張が解れていくのを感じていた。「しばらくは『奴等』も大人しいだろう。こっちも動けるのは俺だけだがな」「そうね」「マサトが起きるまで頼む。どのあいつで目覚めるのかはわからないが」「出来れば、大人しい方のマサトがいいわ」サギリは軽く笑って言った。マサトは自分の人格を瞬時に入れ替えてしまう事で『奴等』に心を奪われないように防御する。どの”マサト”が出て来るか、目覚めるまではわからないのだ。神内の口元にも微笑が浮かんだ。「問題は山積みだな」「それでも、私達は・・」「やるしかないな」「そうね、『火消し』の貴方の役目はまだ終わらないわ」「お前が俺の『道標』である限りな」神内は右手の青い剣を見つめながら言った。次の大きな戦いは、それから15年の後であった。掲載小説のまとめサイトはこちらです