恒例行事(火消しシリーズ)
(誰も気がついていない・・)青年は社長室の扉を開け、中に入った。奥の机にひとりの男がいた。俯いて書類らしきものに目を通している。豊かな赤い髪が額にかかる様子が美しい。離れていても、尋常でない威厳と人品卑しからぬ人物なのが伝わって来る。青年は彼の前へと進んだ。机の前で足を止めると、その人物は顔を上げた。端正な顔に軽く笑みが漂い、驚いた様子は微塵もない。「何か用かね?」その男、朱雀は言った。青年の顔に緊張が走った。朱雀は背もたれに身体を預け、青年をじっくりと見た。「キミは、確か経理部に配属された・・」「その件について伺いました」朱雀は面白そうな顔をした。「”盾”のキミとしては、不服なのだな」「私は・・」「成程、結界の術でここまで来たと言いたいのだな」「誰にも気付かれずに」朱雀は卓上のコンソールに手を伸ばした。「高橋君、珈琲を頼む」「はい、羽鹿(はじか)さんの分とお二つですね」羽鹿は目を丸くした。「私の秘書は皆有能で、なおかつ魅力的な女性ばかりだ。キミが来ても止めない様に言っておいた」「では、最初から」「キミの気配がこちらに向かっていたのは解っていたからね」羽鹿は肩を落とした。「そうですか・・僕が思い上がっていました」「まあ、そう気を落す事もない。立ち話も何だ、あちらで話そう」朱雀は応接セットを片手で示した。勧められるままに、羽鹿はソファに腰を下ろした。向かい側の肘掛け椅子のひとつに朱雀も座った。間近に見る朱雀は、男が見ても惚れ惚れする魅力に満ちていた。威厳もあるが、何処か人を安心させる暖かみもある。長身で肩幅が広く、背広が良く似合っている。足の組み方ひとつにも粋な気配が漂っている。どうしてもかなわないと羽鹿は思った。「どうぞ」前に珈琲茶碗が置かれて初めて、羽鹿は高橋美佐江の存在に気がついた。羽鹿は驚いて彼女を見上げた。秘書室長である彼女は柔らかく微笑して、そ知らぬ顔で朱雀の前に茶碗を置いた。(僕の術など、子供同然だ)「砂糖は、いるかね?」朱雀の声に我に返った羽鹿は慌てて言った。「あ、自分で」「遠慮はいらない、幾つ入れるかね?」「二つお願いします」朱雀はシュガーポットから砂糖をすくい、羽鹿の茶碗に入れてやった。羽鹿は恐縮した。朱雀は微笑した。「そう、堅くなるな」「はい」朱雀はゆっくりと珈琲を味わった。「うん、高橋君の入れる珈琲は美味いな」「さて、キミの話を聞こうか」「いえ、もう結構です」「何故だね?」「私は思い上がっていました」「警備部に配属されなかったのが、不満ではなかったのかね」「自分には、それだけの能力がないのだと解りました」朱雀の雰囲気が変わった。「羽鹿」それは”社長”ではなく、”外のお役目”の朱雀の言葉であった。「はい」羽鹿の背筋が知らずに伸びた。「敵と刃を交えるだけが、”外”の盾に課せられた役目ではない。あらゆる意味で佐原を支えるが役目なのだ。外交的、財政的、その他諸々・・多岐に渡る」語る朱雀の声は深く豊かで、知性に光る目が羽鹿を見詰めていた。羽鹿は朱雀から目が離せなくなってしまった。「戦うに向く者は適した場所に、それ以外の才ある者は才の生かせる場所へと送られるのだ。羽鹿、お前は頭が良い。特に算術に優れていた。だから経理に回されたのだ」「そう・・なのですか?」「それだけではない。ここは”盾”以外の者も多くいる。事が起きた時に迅速に対応する為に、どの部署にも”盾”が配属されているのだ。いわば二重の役目を背負い、それをこなせると判断された者が、警備部以外に送られるのだ。解ったか、お前は能力がないのではない。むしろ見込まれたのだ」羽鹿は目を見張った。目の前の微笑が羽鹿を包み込んだ。「今日は、これで三人目なのだよ」朱雀の前に五十絡みの半白の髪を切り詰めた男が立っていた。人事部長の絹笠(きぬがさ)である。「そうでしたか。新入社員の配属が決まったばかりですので」「配属前に、説明してやってくれないかね」「それでは彼らの為になりません」朱雀は大袈裟にため息をつき、手元の書類を顎で示した。「私の仕事が進まないのだがね」絹笠はにこりともせずに言った。「毎年の恒例行事と思っていただければよろしいかと」「恒例行事?」「社長と直接話した者は、その後、格段に成長致します。これも社長のお役目のひとつと、思っていただければ幸いです」朱雀は苦笑した。「人使いが荒いな」「貴方ほどではありませんよ、朱雀様」絹笠人事部長はすまして答えた。経理部の先輩社員がじろりと羽鹿を見た。「何処へ行っていた?」「すみません、ちょっと」羽鹿は席につくと、てきぱきと仕事をこなし始めた。先輩社員は、急に張り切りだした羽鹿に怪訝な顔をしたが、すぐに自分の仕事に戻った。(終)