輪舞は夜に蒼褪めて#05「隷属と服従と」
第五回「隷属と服従と」時夫は目を開いた。灰色の空から、白い物がちらちらと舞い落ちて来るのが見えた。時夫は降り積もった雪の上に、仰向きに倒れていた。そろそろと首を動かすと、あたり一面が白く見えた。(ここは、どこだ・・)部屋の窓から見えた景色を思い出した。町は純白に染まっていた。なのに衣奈(いな)と飛び出した街に雪はなかった。衣奈・・時夫は思い出した。光の中に飛散した姿を。「衣奈!」時夫は跳ね起きて、思わず叫んだ。立ち上がって周囲を見回した。広々とした平坦な場所であった。遥か彼方は降りゆく雪の中に溶け込み、茫洋として見通せなかった。「衣奈!」時夫は再び叫んだが、答えはなかった。胸のあたりが熱くなった。時夫が手をやると金属の手触りがした。(メダイヨン・・)雪の中にいても、時夫は寒さをまったく感じていなかった。だがメダイヨンに触れた指先は、熱さを感じている。温度に対する感覚を失ったわけではない様である。そして時夫は気がついた。頭の中にささやく声がする。メダイヨンから手を離すと、それは聴こえなくなる。意味は分からない。言葉であるかすらも分からない。けれどもベルベッドの様に柔らかく心地良い響き。時夫はメダイヨンを握り締め、歩き出した。どこまでも変わらぬ雪景色の中を、時夫はどれほど歩き続けたであろう。空腹も疲れもなかった。ただ、ささやきの導くままに歩き続けた。白く塗りつぶされた風景の中に、時夫はぽつんと黒い点を見つけた。時夫の足取りが速くなった。やがて雪の上に横たわる姿がはっきりと見えて来た。黒いマントは半ばめくれ、青い裏側が見えていた。黒いシャツに細いタイ、黒い上着とスボン。漆黒の髪に縁取られた顔だけが雪と争うように白く、その瞳は閉ざされていた。時夫は衣奈を発見した喜びと安堵で、急に疲労が全身に回った。灰色の空を向いて横たわる衣奈の傍らに、時夫はへなへなと座り込んでしまった。時夫は恐る々々身体をかがめ、衣奈の胸に耳を押し当てた。規則正しい音が聴こえた。(生きてる・・)時夫はそっと呼びかけた。「衣奈」衣奈には何の変化もなかった。白い雪以外何もない見知らぬ世界に、時夫は一人で取り残された不安と恐怖にかられた。時夫は衣奈の身体に手をかけ、ゆさぶりながら叫んだ。「衣奈、目を醒ましてくれ!起きてくれ!」衣奈の目が開いた。青味がかった澄んだ目が衣奈を認め、薔薇色の唇の端が少し上がった。「大丈夫かい?」衣奈は身じろぎした。身体のどこかに異常がないか、確かめている様でもあった。「これ以上、雪の上で寝てると風邪引くよ。起きて」衣奈はそろそろと上半身を起こした。そして時夫と向かい合うと、きちんと雪の上に正座をした。「良かった、無事で」衣奈は返事をしなかった。喉に手をあて、ぱくぱくと口を動かした。「声が出ないの?」衣奈は何かを訴えるように時夫を見詰め、口を動かしていた。時夫は当惑した。「落ち着いて、話してごらんよ」「ありがとうございます」豊かで柔らかな声が、衣奈の口から流れ出た。「貴方のご命令がなければ、私は何もしてはならぬのです。ご主人様」時夫は目の前の綺麗な顔を、驚きを持って見詰めた。「ご主人様?」衣奈は頷いた。「私には、十の月と七の星を経た、久しぶりのご主人様です」衣奈は微笑みながら言葉を続けた。「私は、ご主人様の御命令通りに動きます。何でも致します」「じゃあ、さっき僕が話せって言うまで話さなかったのは・・」「はい、御命令があるまで、話す事は出来ませんから」時夫はどうしたら良いのか、分からなくなりつつあった。「ねえ、衣奈」「はい、ご主人様」衣奈はうれしそうに答えた。「ご主人様ってやめてくれないか。今まで通り、時夫でいいよ」衣奈は優雅におっとりと首を傾げた。「それは御命令ですか?」時夫は何となく頷いた。「ああ、そうだ」衣奈も頷いた。「御命令とあらば、時夫とお呼び致します」奇妙な真面目さで答える衣奈を見ていると、時夫はおかしくなって笑ってしまった。笑い終わると、時夫は衣奈に聞かねばならぬ事を思い出した。「キミは誰だい?ここはどこなんだ?」衣奈は哀しそうな顔をした。「私の事をお忘れですか、時夫」白い美貌が翳り、その目から涙がつうっと流れた。衣奈は声をあげて泣き始めた。時夫は慌てた。「ごめん、良く分からないんだ。僕はずっと実家を離れてたし」子供の様に両手で顔を覆い、泣きじゃくる衣奈の肩を、時夫は思わず抱いてしまった。「ごめん、ごめんよ」しゃくりあげながら、衣奈はつぶやいた。「私が半端者だから・・ですか?」意味は分からなかったが、時夫は衣奈を慰めようとして言った。「そんな事はないよ。そうだ、キミの知っている事を話してくれないか?そうすれば思い出せるかも知れない」衣奈は顔を上げた。「それは・・御命令ですか?」時夫は徐々に衣奈の扱いを覚え始めていた。「ああ、命令だ」「では・・『話せ』とおっしゃって下さい」涙に濡れた目が、期待を込めて時夫を見詰めていた。時夫は、衣奈のうるんだ目も綺麗だと思い、思った自分にうろたえながら言った。「話せ、衣奈。お前の知っている事をすべて。何故お前が”怒りの火”に焼かれても無事だったかも」衣奈の青い瞳に、新たな光が宿り輝いた。「おお、”怒りの火”をご存知とは・・確かにお忘れになっただけなのですね」時夫は自分が何故それを知っていたか、分からないままに頷いた。衣奈は細い指先で涙を拭い、立ち上がった。そしてとある方角を見据えた。「あちらに休める場所がある様です。そこでゆっくりとお話致しましょう」衣奈は時夫に右手を差し出した。「時夫、行きましょう」その手には銅色の指輪も鎖も、今はなかった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・